改めて

エドゥアルド・カサノバ監督の「あなたに触らせて」

 

この映画について長ったらしく語る必要はないと私は思う

 

毛色は違うが、幾原監督にファンが求めるものはこれに近い気がした

 

ただ、幾原監督は物事をこんな風に提示しはしない。醜いものは映さない、という欺瞞のベールで覆っているから

 

だが、エドゥアルド・カサノバ監督は違う

 

劇中に出てくる、上と下が逆転した女性、その女性は、レストランでチキンスープを頼めば、ニヤついた店員に嘲笑を吹き出しながら、スープを運ばれ、屈辱的に下からスープを摂取し、帰りにはチンピラ2人に笑い者にされ、あげくレイプをされかける。そんな悲惨な出来事(彼女にとってはここまでが日常)があった後に、青年の足を車で轢き、帰らぬ人にしてしまう。慌てて家に帰ると、ニュースをみた父親が「酷いヤツもいたもんだ」と罵倒する。それを聴いた彼女の普遍的な内的懊悩を察してみるに、「醜い私。でも父さんは私のことを愛してくれる。でも、でも、私は心まで醜いんだ。殺してしまったのに、逃げてきたんだから! ああ、顔だけでなく、心まで化け物なんだ。私......」。父親からは、外に出て生きてみたい娘のためにユニコーンの被り物を嬉々として娘が喜ぶだろうと思って誕生日に渡される。でも彼女はあまり嬉しそうではない。それは自分の顔をオカシイと決めることだから。インスタグラムにひとたび自撮りをあげれば、<不適切な画像だっため削除しました>とiPhoneが小気味の良い通知音を発する。誕生日の蝋燭を消そうと息を吹きかけると、下品な音が鳴り響く。

 

 

 

物語の冒頭、あのおばさんが言った

「世の中は恐ろしく、人間はおぞましい。でも逃げだすことはできない。悪は己の内にある

 

これがこの作品の主要テーマだとは言わないが、それも示したことは事実だ

 

彼女の容姿を見て、嘲笑した店員、彼女の容姿を見て、笑い者にし、拉致しようとした青年2人、彼女の蝋燭を消そうとして発された音、それらに対して、笑ったのは、本当に残酷で心無い彼らだけだっただろうか?

 

ディスプレイの前で喉につまったキャラメル味と塩味のハーフ&ハーフのポップコーンをアイスコーヒーで流しながら、脂のついた手でリモコンの音量調整をつまんでいる椅子に座った我々こそが彼ら以外の笑った人間なのではないか

 

ということを、このエドゥアルド・カサノバ監督は我々に決定的につきつけた。

 

被害者、などいないのだ

この世界では

加害者が、加害者に加害しているだけなのだ

 

そう、エドゥアルド・カサノバさんは言っているんですよ。

 

私たちは、この映画を見てイイ人になれない。

可哀想な人が残忍でヒトの心の無い人にむごく扱われても、私たちはそれに同情し、「あゝ  可哀想な人が残忍でヒトの心の無い人にむごく扱われているのをみて、可哀想だと同情しているワタクシって、なんて優しくて慈愛に長けた人間なのだろう!!!ああ」と気持ちよくなることは、この映画に於いては出来ないように作られている。

私たちは、同情すると共に

その同情を喚起させた人間を嘲笑する側の気持ちも同時に喚起されるのだから

 

 

 

この映画をみて、一つ言えることは、

 

美は恐ろしいな

 

、と

 

美として定められた、ある絶対のほぼ固定的の形状、ではないだけで、差別の対象として他者に圧っされる。

 

美は我々を支配している

 

 

 

なぜ、こういった要素だけでも、充分に一つの映画として、ままなるのに、要素だと言ったのかは観た人ならわかるだろう。

 

本作はこれ以外にも主要な人物が居り、それらの人物を主軸に複眼的に物語が描かれる。

それらは互いに作用しあい、物語に思わぬ、歪みをもたらす。

だが、通じて言えるのは、人物たちが皆なにかのヒヅミを抱えており、それらを修正したいがために足掻き、真実の姿を曝け出していることだ。

 

 

エドゥアルド・カサノバは私達に教えてくれる

 

真実は醜いと

 

 

 

これを観たから人間は変わる

人間は優しくなる

とは思えなくて

なら、芸術の敗北かと言うと

それは芸術に何を求めているか

で変わる話に過ぎない風呂敷の大きさの問題で

 

でも、この映画を観た人は

結論を出すことを強いられる

それを成長というなら、あるいは

 

 

皮肉にも、これは美の恐ろしさをぼくたちに教えてくれる作品ではあったが、

 

この作品は美しかった