輪るピンクドラム

このアニメを理解している人間がどれほどの数いるのだろう。

 

わたくしは畳めていない気がしたし、視聴者が望んだエンドは、ああいったものではなかっただろうことは明白だとも思えた。

 

当作品には小説版があり、それを読まない限り、情報が不足したままでの発言になるということを前提に傾聴したければすればいい

 

まず、眞俐と桃果この2人の定義から、

一見、眞俐の「人間は」という発言から、まるで自分は人間ではないかのような言い振りであったが、「運命が存在するか知りたい」や「この世界が嫌いだった」と同様の意味のことを述べている辺り、神ではないようだ。

 

晶馬は、陽毬が崩御した時、枯れてしまった嘗て世界を照らしていた木を再び、元の木に戻すため、それを持ち出すことを女神から禁止されている、松明の火を二匹の兎にそそのかされて、盗み出し、その罰としてメリーさんの可愛い三匹の羊の内、もっともか弱い一匹の命を奪われた、

 

と、だれになにかをきかれたわけでもないのに、とつじょ、かたりだす

 

 

これらの発言は、あまりにも当時の風景に符合する

 

 

だが、その世界を照らしていた木とは、なんなのか?

 

鑑賞者は疑疑を示す

 

その三匹の羊を晶馬、冠葉、陽毬、そして、メリーを高倉剣山、に変換した時、その世界を照らしていた木、が見当たらない、母親か?

 

だが、作中に、母親、あるいは、父親が死んだ、という過程はない。

 

 

この時点で、その物語のモデルは現実のメタフォアとして、代替可能対象なのか? と鑑賞者は困惑するうえ、物語が幕を閉じても、その世界を照らした木、というものは、見当たらない。

 

たとえとして、不適切、不出来だったといえるし、その不適切なメタフォアが、結果的にこの物語を見終わった視聴者に不明瞭な解釈をあたえる悪の根源となっている

 

 

結末は、決定的に提示されるべきだと、わたくしはおもう

 

 

わたくしは、どうとでも解釈できるような発言は嫌いではない。

 

特に今作は分かる人には分かるけど分からない人には分からない、そういう一部の過程を通過した同士にのみ、この作品の数々の胸を衝く言葉は向けられていた

 

巷でちらほら散見されたこの作品のテーマは[愛]だとする意見。

 

わたくしはそれにまったく賛同できない

 

この作品の核は、渡瀬 眞俐と荻野目 桃果 の二項対立にこそ、あるとかんがえる

 

渡瀬 眞俐の発言には、賛同しかない

 

と、多くの人間が共感したのではないだろうか?

 

彼の発言は多くの人間が思ったことなのだ

 

この社会は生まれた時から人間を箱に入れる

 

まず、赤ん坊は家庭という、アル中親父かスパルタ教育ママかいずれにしろ、ヒトツキされればイチコロの無防備なそのなんにでも変形できてしまう柔肌を、野蛮な獰猛獣の前に晒され型で固定され、その固定化がすんだら、後続する、小学校、中学校、高校、大学、用意された移動方法である直方体の高速移動車両に閉じ込められ毎日決められた行動を要求される仕事を終え、そして気づいたら人生が終わっている

 

それらの箱の中に閉じ込められ続けると、人は、「何者でもない」人間と称される

 

 

渡瀬 眞俐や高倉剣山は、そう、「何者でもない」人間を称していたが、それは、ほんとうかな、わたくしには、それが不思議におもえた。なぜなら、わたくしは、一般の人間よりも、遥かにそういった、箱の中に居ることを嫌い、総じて、人生を、外れてきた、自負がある。そんなわたくしこそが、きっと、「何者でもない人間」だからだ。そうかんがえていた。

 

 

 

でも、彼らはそう言わなかった。

この世界での、何者かである、とは、「医者や、科学者やAI研究者や数学者や俳優や音楽家や建築家」を指す。それらの人間は、その箱に入り続けなければ、なれない存在なのに。

 

 

彼らにとっての、つまり、何者かである、とは、そういった箱が断絶するのは、夢だけじゃない。

 

人と人との関係性にこそある

 

こどもブロイラー

そこにいれられた子供は

透明な存在になる

 

この透明な存在、こそ、彼らの言う「何者にもなれなかった人間」なのだ。

 

こどもブロイラーにいれられる人間は、みな、親に見捨てられている。愛を与えられていないのだ

 

そして、実はこの「何者にもなれなかった人間」作中には、沢山でている。あの顔のない白い人間たちだ。その他大勢の人間であることを意味しているように見えるが、本当にそうかな。彼らは永遠に、陽毬や晶馬や冠葉や苹果にとって、「何者でもない人間」なのだ。それは、なにがちがうのだろう?

 

何者にもなれなかった人間

何者でもない人間

 

まったくかわらない

 

そして、なぜ、陽毬や晶馬や冠葉や苹果にとって、彼らが、何者でもない存在なのか?

 

それは、彼らが箱に入れられているからだ

 

私達は一人残らず、牢屋に入れられている

 

だからだ

 

だから、私たちにとって彼らは何者でもない存在であり、彼らにとって私たちは何者でもない存在なのだ。

 

 

そして、それは、

 

この、檻が壊されないかぎり、ずっとつづく

 

 

だが、もうひとつだけ、方法がある

 

愛だ

 

冠葉は最初はあの狭い檻の中で見当たらないはずもない林檎を見つけることができなかった。が、晶馬と時を重ねるなかで、最後に、とうとう、あの狭い檻の中で赤い林檎を見つけるのだ

 

そして、ふたりは、死ななかった

 

ふたりは餓死しなかった

 

なぜなら、冠葉が、赤い林檎(愛)をふたつに分けたからだ

 

 

 

これが、檻のなかでやり過ごすもうひとつの方法なんだ

 

 

 

これは、必然的に、渡瀬眞俐が病院で高倉陽毬に対して言った、「追う者と追われる者とキスと果実の話」に符合する。陽毬は、追わない。すると、眞俐は、「じゃあ、ふたりともが追わなければ。それは、お互いが、お互いに、わたしからは近づきませんよ、と宣言することに等しいんだ」と言った。

 

これは、眞俐という人間が、人間に「そうあってほしい」と願望を語った一瞬なんだとおもう

 

 

 

 

さて、話に戻ると、渡瀬眞俐と荻野目桃果

 

荻野目桃果は渡瀬眞俐に対して一体どのような対立が成されていたのか?

 

箱を壊すことで愛を箱の外で見つけようとした眞俐と

檻越しに芽生えた愛を分け与えることで箱の中の生を得ようとした桃果

 

 

このふたりの結論の内、片方のみが、物語の最後に採用される

 

それはどちらが正しいとか間違っているとかいう話でもなくて、ただ、晶馬や陽毬にとって、彼は何者でもない存在、ではなく高倉冠葉だったのだ。そして分け与えられた果実は、冠葉に渡されたにも関わらず、冠葉と晶馬は消失する

 

 

 

 

話が前後するが、きっと何者にもなれないお前たちに告ぐ、のこのきっと、と何者にもなれない、が人間と人間の関係性を構築する糸である愛と関与付けられたものであると断定づける証拠をあげると、晶馬が高倉剣山の息子であると萩野目苹果に知られた時、晶馬はヒステリックを起こした。その時、彼は言った。「ぼくたちは始めから何者にもなれやしないんだ」と。きっと、なぜきっとなのか。彼らの親が犯罪者だからだ。

 

犯罪者でなくとも、犯罪者の子息というだけで、この日本社会では、差別、蔑み、敬遠、いじめ、の対象となる。

 

それでは、きっと愛されない

 

だから、きっと何者にもなれない

 

 

 

 

この作品には、やはり結論はくだされない

 

この物語では、だれもすくわれない

 

だいたい物語で人を救おうだなんて不適切だ

 

人は誰も救えない

 

自分を救えるのは自分だけ、じゃない

 

自分すら自分には救えない

 

ただ、我々は海のうえを揺蕩う木屑なのだ

 

自分が自由に泳げるアシカだって、いつ勘違いした?

 

この作品はただ我々に事実をつきつけた

 

 

わたしはおもった

 

渡瀬眞俐の設置したテディベアが地下鉄で爆破されれば、それで、箱は壊れたのか?