苺大福の酸味は女の子を嘗めたときの酸味

パラレルパラダイスを読んでいて思ったことは、生命力がないな、ということ。私達の世界と似ているが似ているだけで同じではない世界で男と女がセックスすることで、お話の筋が進行する、そういったパラレルパラダイスと同様の構成を採用している作品に『ムシヌユン』という作品がある。これの5巻が最近発売されているが、これを読んでいて思ったことは、それぞれの人物が独立した意志を持ち、それらがそれぞれの視点から見た、現実の諸問題にあたるとき、それぞれがそれぞれにしかできないやり方で行動し、それらは、物語の主要人物の意志の通りにならないばかりか、私達の現実がそうであるように、主要人物の道を阻害、あるいは予期せぬ方向へ時計の針を進めていく。そしてそれが歴史となる。


こういった感慨に陥らせるものだった。


ところが、パラレルパラダイスには、それがない。


まるで、一人で十人の役を演じる一人劇のようだ。彼女たちには、臓腑がない。


そもそも、セックスという概念は、陳腐だ。なぜなら、やることといえば、女のあれに男のあれがはいって、蠕動運動を繰り返し、やがて張りつめたあれが、あれを吐き出す。そして、訪れるいっときの静寂。その静寂には、侘しさや、虚しさ、あるいは恍惚、などが含まれるが、パラレルパラダイスを見ている人間からすると、おそらく 侘しさ だろうな。そう 侘しさが読者に訪れるのだ。


そもそも、だよ。エロい本が読みたいなら、エロ本を読めばいい。

ちがいますか。ちがいませんね。

そして岡本倫はエロ漫画家ではない。
しかしいま描いている彼の漫画はエロ漫画だ。たしかに、極黒で、あれだけセックスがどうだのこうだの言ったのだから、その先である 行為 を描くよう要請されやすい環境にあったのかもしれない。

ところで、松本次郎の地獄のアリスや女子攻兵にも、そういったシーンがある。そして、それらはエロくないかといえば、否、エロいと言わなければならない官能性があった。しかし、では、松本次郎は、エロ漫画家か? と言えば、否、エロ漫画家ではないのである。

そのシーンは、物語上 必要であるばかりか、生々しさ、つまり生活感があった。この、物語上 必要というのは、たとえば、少年は片親に育てられている母を知らない孤独な少年で、その少年にいつも優しくしてくれているレストランの給仕の女が、あるとき、二階の部屋に彼の父親をともなって鍵を閉めた。気になった少年は、鍵穴から二人がなにをしているのか覗きこむ。ドアからは女の「好き 好きよ 愛してる」という嬌声が流れてきた。

少年はそれから数日後、その人に、僕のお母さんになってよ、と言う。女は、「そんな、無理よ。だって、あなたのお父さんの都合だってあるでしょ?」と。そこで少年は、でも、お父さんに、愛してる、って、言ってたでしょ。と。 あれは...... と顔を赤くし言い淀む女。

少年は数日後、またその店を訪れた時、二階からまた例の声が聞こえてきた。あれ、でも、今日はお父さんは仕事のはず。そう思って鍵穴を覗いた少年は、女が知らない男と寝ている姿を見る。「好き 好きよ 愛してる」という例の声と共に。 女は娼婦でもあった。


これで、お話が終わるわけではないし、あくまでも、地獄のアリスのなかでは、この給仕の女の人間性の外観と少年の女に対する母親希求願望を提示させ、そのあとに、なぜ少年が現在の様な心的外傷を患うに至ったのか説明する、序章に過ぎない。しかしその心的外傷を経るためには、どうしても、給仕の女と少年の経緯(いきさつ)を描かなければならない。

でなければ、人は感動できないからだ。

人は、断片には感動できない。

たとえば、涙なくしては観られない大傑作と言われる映画があったとして、それを十秒毎に分割する。そしてそれらをランダムに、それらの総上映時間になるように、継ぎ接ぎをする。

その映画を観た人間は、感動できるだろうか。

人は物語に感動する。

では、物語とは、なにか、それは過去に起きたことが現在に影響をもたらし、現在で起きたことで得られた知見で過去を遡り、そこでまた新たな視点を得、その視点がまた新たに現在の状況を活性化すること。

そのためには、人の思考が、思考を可能とする、前と後の時間的空白の無さが必要となる。
それはなぜか、思考とは、言語であり、言語とは、前後が作用しあうものに他ならないからだ。

人間が“物語”以外で感動するには、新しい言語が必要だ。

そういう言語は存在するのか。
存在しなかったとして、それは開発可能なのか。また、開発することで得られる利益は?


と、ここまでにして、とにかく、そこで描かれたセックスには、必要性を感じさせられた。

ところが、パラダイスパラダイスの中での必要性は、嫉妬深き神の呪いを解くためという、あまりにも現実とはかけ離れた条件付け、なぜ、女の子が二十歳を越えて死んではいけないのか? <女の子を助けるのに理由がいるのか?>だそうです。 いや、まあ、そうなのだが。可愛い女の子を助けるのに理由はいらない。しかも、セックスしなければ助けれない。タス・タ・タタタタスケル・・・シカナイ・・・・こういうハッキングされた脳死状態の機械生命体の思考能力を私は彷彿とさせてしまうんだが。そういう行動方針は。  まあ、それが作品全体にも表れているように思いますが。いままでの、岡本倫の作品には街がありましたよね。そしてそのディティールがリアリティがあった。たとえば、女の子とデートと言っても、カラオケとかアイスクリーム買ったりとか、映画とか、それだけで、リアルが生まれ、男の理想が啓発されると思うのですが、ドラゴンや巨大オオサンショウオなどが出てくるファンタジー世界では、そういう理想は刺激されない。


これは、ファンタジーを題材にとったことがいけないのではなくて、ファンタジーはあまりにも可能性がありすぎるため、その可能性を充分に発揮しなければ、5LDKに家具が一つしかないような、物足りなさを感じさせてしまいます。いまの、彼の作品がまさにそんな感じ。


セックスの話に戻りますが、松本次郎やムシヌユンで描かれているような、エロ漫画家ではない作家のセックスシーンには、その男のセックスに対する欲望は、確かに、その漫画の紙の数ページをコマの隅から隅まで埋めてしまうだけの、全世界性があると読者に思わせるが、世界はそれだけではなく、物語の裏では様々な思惑(おもわく)が駆け巡り、この、男と女のセックスもこの大舞台で上映されている劇の小品に過ぎない。そう思わせる力があると思います。


ですが、岡本倫のパラレルパラダイス、これはどうでしょう。
たしかに、ヨウタは、セックスが目的ではなく、彼女たちを救うことが第一であるかのような、精神的虚勢者のような面をし、また、それにふさわしい発言をしています。さすが、岡本倫です。わかっています。そうです。セックスに耽(ふけ)るような人物を描いてしまうと、エロ漫画になります。

でも、でもです。深みがない。人物に生命力を感じない。彼女たちは、概念のようだ。人がその人の命を助けたいと思うのは、その人が概念を上回る量、質量を抱いている場合じゃないのかな。

まあ、結構です。

可愛い女の子とセックスしたい。
しかも彼女から一方的に求められる男性優位の状態で。そしてその世界での男性とは、ある人物の固有名詞でもある。なぜなら、男は一人しかいなかったのだから。
女の子をドラゴンやプロレスまがいのマッチョなオッサン群から守りたい。
そして、守って、女の子からチヤホヤされたい。


もしかするとですね、脚本とか、物語としての深みとか、そんなことは、いまの岡本倫さんにとっては、どうでもよいことで、さっき言った項目さえ充たされていたら、僕が描いた漫画の存在原因は全うされています。

と、おっしゃられるのかもしれません。

私は、そんな漫画があってもいいと、おもいます。私は彼の描いた漫画が好きだし、二巻を読んでいる最中に何度も笑わせていただきました。上に色々と書きましたが、批判ではないです。完璧な作品ではないかもしれない。じゃあ、どこが完璧ではないのか。それを論じました。そして、完璧な作品を人間が描けるのか? とも思っています。


もし、あるとしたら、それは 完璧だ。と発言する人において、完璧なのでしょう。