タイトルなんてつける人間は自意識過剰なんじゃないですかね?

どうして、フランス人の作家はこんなにも小説を書くのがうまいのか?

 

フランソワーズ・サガンパトリック・モディアノマルキ・ド・サドシュペルヴィエル、ラディゲ

 

これらの作家はすべてフランスの作家である。サガンの「悲しみよ こんにちは」を初めて読んだとき、その完成度におどろいた。細やかな心理描写、十代後半の少女と対照的に描かれる40代の父親、その妻の友人、の仕草に対する描写はどれも無味乾燥としたものではなく、何らかの駆け引きや、主人公に対する政治的心情の表明を簡潔にしかも主人公の物の見方が読者にわかりやすく提示される形で つまり、口語的に 表現されていた。しかし、そういう作品を書くことのできる人間はいないわけではない。この事実が本当に評価されるべき点は、彼女がこの小説を18やそこらの年齢でものしたという点にある。だいたい18かそこらの年齢にある人間には、40を越えた男や女の向ける、まなざし の意味を理解はできないだろう。否、理解はできるかもしれないが、共感はできないはずだ。しかし彼女の作品には、考察などではなく、もっと深い相手と自分との境界線を曖昧にできてしまような、深い段階での人物造形の再現に成功していた。

 

また、作品としても考えぬかれている、この「悲しみよ こんにちは」という作品は、悲劇で終わるということを、はっきりではないが、暗にと言うには、あまりにも明るすぎる程度で、読者に伝えられる。そうすることで、こういった つ く り あ げ た 悲劇的末路 につきものの、つ く ら れ た 読者の沈鬱な感動 に対する読者自身の辟易した気持ちを発生させないことに成功している。つまり、作者自身が[この作品には創作につきものの強引な恣意性が混入しています。しかしこの作品で重要なのは、そんなところではないのです。じゃあ、どこかって、それはご自身の目で確かめて下さい]ってね。

 

わたしは新潮から出ている新訳の河野万里子訳で読みました。河出のデュラスとの併録集も所有してはいますが、日本人に親しまれてきたといわれる旧訳よりも、圧倒的に新訳の方が優れていました。旧訳は、文語表現で進行していて、主人公の独白性が減退するばかりか、主人公がすました妙にインテリな雰囲気をかもしだした、謀略のはたらく狡猾な女狐となってしまっていました。(冒頭を読んだ限り)しかし彼女はそんなすました人間ではないのです。ほんとに無邪気な笑顔の似合う、でも馬鹿っていうわけではない、ただの社交的な女の子なのだ。

 

あー、サガンのことを発言しただけで、これだけ文字数をくってしまうとは。

続きはまた今度