たんぽぽの、ぽは、たんぽんのぽ

小説を読んで人間的に成長するとか、こころを豊かにするとか、閉ざされていた目が開かれる、とか、そんなことは、ざれごと だとおもう。

他人の決断を俯瞰しつづける行為が小説を読むということなら、わたしたちと、そこで描かれている人間は、別人だ。そこでもし、当該人物が高貴なる死を遂げたり、常人には行うことのできない非常に徳の高い行為を働いたとしても、わたしたちがそれで、高貴なる死を遂げることができたり、弱者を踏みにじることなく、常に微笑みを湛えたまま弱い者の盾となりつづけたりすることができるのか? 

わたしたちの人間的成長とは、なんだ。まさに、小説で描かれた善を、現実世界で、実行することにあるのではないか。

しかし、小説で描かれた人間は実在しないし、また、その小説を書いた人間すら、徳の高い人間であるとは限らない。そして、わたしたちの大部分が小説で行われた尊敬すべき人物の決断を模倣することはしない。自分の命が惜しいからです。だれも苦しんで死にたくはないし、銃殺されたくはないし、好きでもない、ただ社会的に弱者であるという人間なだけで、自分の資産、時間、労力を注ぐことは馬鹿げていると考える。つまり、馬鹿げていると初めから考えていなかった人間だけが、小説の中の人物を模倣することができるが、そもそもそういう人間は模倣する必要はない。模倣される側の人間だからだ。


このような理由で、我々が小説を読むことは我々の人格の形成に資する部分はないわけではないが、小説を読むことによって、我々は善人になるわけではないと結論づける。

小説の中の人物を真似ることは本当に馬鹿げている。その人物は存在もしなければ、小説であれば、いくらでも英雄的行動を人物にとらすことは可能だ。ほいほいと自殺させることも可能だし、自分以外のクラスメイトからいじめられている男の子を救うために、一人だけで、ほかの人間たちに立ち向かう人間を作成することも可能だし、そのいじめられていた男の子が裏切って、つまり、いじめていたほかのクラスメイトからこのような話を提案される。(あいつ、佐々木、そう、お前をかばってる。お前が、こっち側にくれば、お前を俺たちの仲間にいれてやるよ。そしたら、いじめはおわる。どうだ、おいしいはなしだろ?)

今度はいじめをとめようとしていた人間がいじめられる。しかし、それでも彼は、絶望することはなかった。人を決して恨まなかった。それでも人を信じつづけた。

という人物の人格を形成することも可能だ。

たしかに、彼は尊敬にあたいすべき人間だ。だが、現実で彼のような行動をとれば、大抵の人間が人間不信におちいるか、精神病院へ一生通院することになるだろうし、まともな神経では授業や仕事には集中することはできずに、その生活は破綻するだろう。あまりにも、代償が大きすぎる。しかも彼は存在しない。作者が描いた人間を模倣して、人生がぼろぼろになったのを気づいたとき、模倣した人間は、自分が操り人形となっていたかのような空虚な感触をもつだろう。


そして、実際、そうなのだ。そんな人間を書いてしまうような人間は良い人間のはずがない。まるで、その行動をとらなかった人間は全員クズだ。といっているかのような、善行を啓蒙する気配が感じられるし、その本を読んだ人間には、実際そんな感情しか残らないんじゃないか。

わたしはべつに、そういう聖女みたいな人間が、悪人たちに犯されたり、残虐な目に遭いつづけても、それでも変わらない。みたいな、そういう構造の本が嫌いなわけではないんです。むしろ、エロスを感じるし、絵的にも群像劇性(作者の恣意性を感じにくい)が感じられて好きなモチーフではあるんです。だから、テーマに文句があるわけではなく、作者に問題があるのです。マルキドサドの書いた同上のモチーフは、きっとわたしは嫌いではないでしょう。もっとも、彼の作品は数作しか読んだことはありませんし、その内のどれもが、一方的に女性や美青年が犯されるものばかりでしたから、彼にそのような人間の悪と高徳な精神を対比させるようなものが書けるのか、あるいは書けても書かないのかはしりませんが。ま、彼はもうこの世にいませんけどね。



結論を言うと、小説とは、剥き出しの人間の欲望、が描かれているべきだし、それ以外は犬にでも食わせておきましょう。ということです。

そこで重要なのは、私の考え通りの小説が世に満ち溢れたら、犯罪小説ばかりになると思うかもしれませんが、そうではありません。


なぜ、そうならないのかは、私の文脈から判断してください。わたしはもう、つかれました。

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