あなたがいままで読んできた中で最高の作品はなんですか?

と、きかれたら、エルフェンリートと私は答える


あなたがいままで読んできた中で最低の作品はなんですか?

と、きかれたら、エルフェンリートと私は答える



大好きな子に親と妹を殺されても、それでもその娘を愛してしまう、複雑な心中にあるコウタと同様、読者もまた、この作品に対して複雑な気持ちを抱いてしまう。

作者は、鬼だ、鬼だ、と読んでいる時、なんども思いました。


でも、それは、[どこまでも純粋に喜べる人は、どこまでも純粋に悲しめてしまう]ということを描くことが作者である岡本倫の第一目標でなかったにせよ、副次的にそれを証明することになりました。

ルーシィの笑顔に不純物の含まれない笑顔があるからこそ、その笑顔を観ている人は、不安に思う。そういう人は、悲しいとき、本当に、悲しいのだ。擦れからっしのやさぐれた、あの、ちまたに満ち溢れた悲しいという感覚の麻痺した、下種とは違うのだ。彼らの喜びは、常に哄笑と共にある。



岡本倫が、作中、鬼になったのは、よくわかりません。でも、鬼にならなければ、ルーシィに極限の、最高潮の喜びは訪れることはなかっただろうし、その最高潮の喜びがあったからこそ、鬼となった岡本倫がルーシィを地獄に叩き落とした時、もっとも深く純粋な悲しみが彼女を訪れたのだろう。



そして、その悲しみがあったからこそ


コウタに抱き締められたり、真実を知ったうえなのに、それでも、にゅうを、そしてにゅうだけでなく、ルーシィさえも家族として、受け入れると言われたとき、深い深い喜びがルーシィを訪れたのである。




そして、純粋なものって、美しいじゃないか。


彼は、鬼となり、純粋をえがいた。




パラレルパラダイスは、エルフェンリートや極黒を読んだ後だと、感触が変わるだろう。

岡本倫は正しい選択をしたのだと思う。

はじめは彼らしくないな、と思いもしたが、エルフェンリートは人間が一生に一回か、一回作れるかどうかの作品で、もう二度とあのような作品を彼が書くことはないだろう。


私も読みたくはない。
というのも、悲しみたくないからだ。

脚本は、時に、作者を鬼となるように仕向けるが、作者が、脚本を作るのはなんでかというと、その方が面白いからだ。そして面白さを求めているのは、読者でもあるのだ。つまり、悲しみを娯楽として売却する行為に近い。そういうと、聞こえが悪いので、読者とは他人の悲しみに群がるウジ虫のような連中であると言えるだろう。


だから、パラレルパラダイスという選択は正しい選択だと思う。


これで、読者はウジ虫にならなくてすんだ、というわけさ。




うえとは、はなしがズレるけど、作者の岡本倫さんは、自分の描く絵をあまり評価していないようです。

でも、僕はウィリアム・アドルフ・ブグローの絵や、ジョン・ウィリアム・ウォータハウス、ピカソポール・デルヴォー、モネ、ワイエスルネ・マグリット、ダリ、ガストン・ラトゥーシュ、ダ・ヴィンチ、アンリ・ド・トゥールーズロートレックの絵を見て泣いたことはありませんよ。


人を泣かせることのできる絵を描けるというのは、すごいことだとおもいますけどね。

だから、作者が自分の絵を貶すのをきくと、悲しくなる。


エルフェンリートの作中、コウタが声楽の有名スクールに通っていなかったことを不安に感じているノゾミちゃんに、「ノゾミちゃんの歌を聴いていると、ノゾミちゃんの嬉しそうなきもちがとてもよく伝わってくるんだ。人から教わって身に付くような歌を聞いてもつまらないけどなあ、でも、そのきもちはレッスンでは教えてくれないことだからさ」と大体こんな感じのことを言っていたと記憶していますが、なぜ、それを自分にもかけてあげないのかな。


自分を褒めても、空しいだけなのかな。

他人の声が必要なのかな。

僕は岡本倫の絵が好きです

広告を非表示にする

エルフェンリート

ルーシィはなぜ死ななければならなかったのだろう。あれ以外に方法はなかったのだろうか。ノゾミちゃんとマユとナナとユカとコウタとにゅうがノゾミちゃんの合否通知を待ちわびているあの一家の団欒の時が、あのまま永遠に続けばよかったのに。

でも、それではおはなしにならないからだろうか。




ルーシィは悲しい

好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで たまらないのに それなのに あまりにもその人の隣にいられる時間は 刹那的で つかまえた もう一生はなれない とおもって抱き締めた途端 その人とは なにか見えない力が働いて 引き離される    だから、その人の ただ傍に立っているということだけでも、一瞬 一瞬が奇跡的で、かけがえのない時間で、うれしくてうれしくて 涙がながれてしまう




ルーシィは悲しい、ルーシィは悲しい、ルーシィは悲しい、何度泣いただろう。ルーシィが、ルーシィの立たされた人生が、ルーシィのコウタに対する想いが、あまりに切なくて、ルーシィはなぜ死ななければならなかったのだろう。ルーシィはなにも悪くないのに。ただコウタが好きなだけだったのに。



わたしはルーシィとコウタがむすばれてほしかったよ。

これではあんまりだとおもう

あまりにもかなしい

最後の双子は、ルーシィとにゅうの人格を宿した双子なのでしょう。

おそらく最後のベクターが広範囲へ放出された時、自分の生前の記憶をも復元できてしまう細胞を人間の生殖細胞に癒着させたという、解釈でよろしいのだろう


ほんとは、この作品についてのことを、こんなところで書くことではない。この作品はそれほど純粋に悲しい

そんな、純粋に、悲しい作品はない

そんなに尊い作品もない

でも、エルフェンリートは世に出されてしまった

エルフェンリートという作品は あまりに美しすぎるため 本来 このような薄汚い ゴミの掃き溜めのような 世界に住む、人間の王国の住人が目にしてよいものではない エルフェンリートという作品は この作品と同様 あまりにも美しい心をもっている人に読んでほしい 現存するホモ・サピエンスは失敗作だ。人形の肉体を持ち、他者を思いやる気持ちにあふれた純粋な心をもった存在、人間の代を終わらせ、末永くこの地球に住んでほしいのは、そういう存在だ。


そういう存在にこそ この本は ふさわしい

きっとその存在は 綺麗な涙をながすだろう

ルーシィのことを想って 涙をながすだろう



そんなときだ、たぶんわたしが、まだ納得のいくときは。ルーシィがもう差別されたり、いじめられたり、差別されてずっと一人で、寂しくて頬を濡らすことがなくなった世界 に住む住人が 泣いている ルーシィのことをしって





わたしは文句はない

わたしは文句はある


この作品はまさに運命なのだ

どうしようもない が集積したものだ

それ以外にどうしようもなかった

それぞれの人物が それぞれの視点、人生に従い、現実の我々同様、最良の選択を積み重ねていった

いったいそれしかとることのできなかった人間を、誰が責めれよう



そう だから この作品に文句はない

けど、やっぱりかなしいよ

どうして どうして を繰り返してしまう

どうしてこうなってしまったんだろう



私はこの作品に文句がある

広告を非表示にする

岡本倫が、新人時代の頃に上梓した「FLIP FLAP」この著作について、岡本倫本人は「新人時代の頃なので、絵は大目に見てください」との旨を語っていたが、本人はあの頃の絵をあまり評価していないようだ。 しかし私からすると、あの時に書かれた絵は今の岡本倫の描いている絵よりも見所があるのだ。「FLIP FLAP」そのものの内容は人間を内臓だけにしたような、剥き出しの部分が描かれている。当然、そういった内容にふさわしい作画とは、遠近間、輪郭線、顔のパーツ、これらを通常の規格から著しく逸脱させる作画でなければならない。

 

たとえば、それがどんなものなのかと言えば、ハンス・ベルメール球体関節人形、漫画でいえば、 「GANTZ」大阪篇に出てきた乳房の集合体、これらは通常の人間、人形、の規格から著しく逸脱している。しかしそういう形式を意図をもって、かつその意図をややとう晦気味に用いることによって、観測者に言語以前の感想をもたらすことができる。よく「言葉で巧く表現できない」と表現されることがありますが、感情は言語よりも微細なのです。言語は感情よりも単位が大きい。その部分に訴えかける力がこの表現技法にはあると思います。

 

ただ、岡本倫はその表現技法を意図的に選択した訳ではないと思います。彼は当時、型がなかったからじゃないかなと。漫画は、笑った顔、怒った顔、泣いている顔、これらの型ができてしまえば、作家は後はそれを好きな時に取り出せばよいという、ともすればその独特のシーンに非対応的な循環環境が構築されかねない状況になりがちです。しかし、当時の岡本倫には自己の中にその目指すべき型がなかった。いわば、常に彼の中で、「この人物の泣いている顔とはどんな顔か?」という問いかけが繰りひろげられていたのだと言えます。だから、あの頃に書かれた彼の絵はどれも新鮮なのです。しかしそれも、極黒の初期あたりで終わってしまった・・・今の彼の絵は形式的だ。極黒の初期を読んだことがある人はわかると思いますが、黒猫の顔がなんともいえない死への郷愁のようなものを表現していて、みているこちらが沈鬱で儚い気持ちになるのですよ。そういう絵が描ける人は稀少だったのに。

 

広告を非表示にする

君は淫らな僕の女王  久方ぶりに読み返しているけど、あそこで描かれていることが、[永遠の愛]であるなら、私はおかしくて笑ってしまう。

 

永遠の愛、そんなものはない。

 

しかし、おもしろいものですね。愛し合う二人は、2ヶ月後、いいえ、2日後、いいえ、明日は必ずこのままずっと抱きあったままだろう、と信じるものです、しかし私が気になるのは、じゃあ、3ヶ月後は? 三年後は? 十年後は? 五十年後は? という疑問を投げかけたとき、彼らが言葉を濁すことが明白だからです。彼らはわかっていないのです。自分たちの愛が、明日も、2日後も、2ヶ月後も、いや永遠ですらある期限のないものであると宣誓に近い形で信じているのに、いざ、具体的な数値を提示してみると、たちまちその ”永遠の愛”に対する自信が瓦解することに。

 

だから、彼らのなかで、愛し合う時間的数値を提示することは、禁忌とされている。彼らも薄々気づいているのだ。だが、「現在しか見ない」その姿勢が、恋などにうつつをぬかす原因となっているため、永遠の愛などないとしりながら、自分たちの愛は永遠だ、と激しく確固たる自信をもって、主張するなどという頭と身体が分裂したかのようなちぐはぐなことを 平気でやってのける。

 

でも、君は淫らな僕の女王 は作品ですからね。

つまり、存在しないものを描いてよいのです。

 

そこで思ったのが、岡本倫は 植物標本を作ったつもりなのか、それとも造花を作ったつもりなのか、ということです。

 

前述した通り、植物標本は私の中では論外ですが、それが そういう愛が巷には溢れかえっているわけで、植物標本を作ることで皮肉にはなりますよね。

 

ですが、作品からはそのような意地悪さは伝わってきませんでした。

だとしたら、造花? なんのために

 

結構、夢だと言いたいのですね。

一人の男が布団にくるまれて見た、黒髪ロング令嬢 美貌 程よいバスト 知性 痴女 自分にぞっこん 幼馴染み 高校生 、以上の要素がつまったおよそ男という男が一度は夢見たであろう理想の女の子とイチャイチャする夢

 

だと言いたいのですね。

 

夢を見ない私からすると、白けますけどね。

存在しないものを追い求めてもそれが決して手に入らないことに絶望しているからだと思います。仮に存在したとしても、私という人間は 人を愛することはできない

 

そう知っているから

 

広告を非表示にする

人生が、飽和した。 こういった、感慨に陥らない人間とはいったいどういう人間なのだろう。自分の人生に確たる礎を築き、そこに向かって日夜邁進する。つまり、ある事柄において自分は傑出した才覚を持ち合わせており、それについては他の追随を許さない。という自惚れが必要なのか。どうしてそれが客観性を欠いた自身の核とするにはあまりにも脆弱な地盤で築かれていることを、省みないのだろう。ふと、わたしはこれこれについては他より優れた能力を持ち合わせているが、もっと広い目でみれば、たいしたものではないかもしれない。そう、自らを省みる夜が一夜でもあれば、彼らは自らの足をそれ以上前へ進めることをとめるだろう。

 

私は人間というのは、滅ぶべきだと思うし、心底嫌悪している。

彼らは、なぜ生きているのか、秋、夏に栄えた植物が枯れて私達の視界に映ってもその存在がかつてなんであったかなどは、思いもよらない、そういう存在であればいいのに。

 

冷静に考えてみてくれ、高慢ちきで、救いようがないほど、内省性に欠けた、それ以上賢くなることもなければ、自身の薄汚さに気付くこともなく、のうのうと生きて老人になっていく彼らの存在を 彼らが成長させるとすれば、どうすれば他人を出し抜けるか。どうすれば自分が相手より優れた存在であることを出来るだけ相手がそれ受け取ったとき屈辱的と感じさせるやり方で証明できるか。その技術だけだ。

 

なんで、あんな人間が、生きているのか。なぜ、死んでいてはいけないか。

 

この、生きているのか、は、よくその人格性で社会に溶け込めるな、という生計を立てることの困難さからくる生命への疑問ではない

 

いうなれば、

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 # 17 18

こんな感じ

 

 

広告を非表示にする

苺大福の酸味は女の子を嘗めたときの酸味

パラレルパラダイスを読んでいて思ったことは、生命力がないな、ということ。私達の世界と似ているが似ているだけで同じではない世界で男と女がセックスすることで、お話の筋が進行する、そういったパラレルパラダイスと同様の構成を採用している作品に『ムシヌユン』という作品がある。これの5巻が最近発売されているが、これを読んでいて思ったことは、それぞれの人物が独立した意志を持ち、それらがそれぞれの視点から見た、現実の諸問題にあたるとき、それぞれがそれぞれにしかできないやり方で行動し、それらは、物語の主要人物の意志の通りにならないばかりか、私達の現実がそうであるように、主要人物の道を阻害、あるいは予期せぬ方向へ時計の針を進めていく。そしてそれが歴史となる。


こういった感慨に陥らせるものだった。


ところが、パラレルパラダイスには、それがない。


まるで、一人で十人の役を演じる一人劇のようだ。彼女たちには、臓腑がない。


そもそも、セックスという概念は、陳腐だ。なぜなら、やることといえば、女のあれに男のあれがはいって、蠕動運動を繰り返し、やがて張りつめたあれが、あれを吐き出す。そして、訪れるいっときの静寂。その静寂には、侘しさや、虚しさ、あるいは恍惚、などが含まれるが、パラレルパラダイスを見ている人間からすると、おそらく 侘しさ だろうな。そう 侘しさが読者に訪れるのだ。


そもそも、だよ。エロい本が読みたいなら、エロ本を読めばいい。

ちがいますか。ちがいませんね。

そして岡本倫はエロ漫画家ではない。
しかしいま描いている彼の漫画はエロ漫画だ。たしかに、極黒で、あれだけセックスがどうだのこうだの言ったのだから、その先である 行為 を描くよう要請されやすい環境にあったのかもしれない。

ところで、松本次郎の地獄のアリスや女子攻兵にも、そういったシーンがある。そして、それらはエロくないかといえば、否、エロいと言わなければならない官能性があった。しかし、では、松本次郎は、エロ漫画家か? と言えば、否、エロ漫画家ではないのである。

そのシーンは、物語上 必要であるばかりか、生々しさ、つまり生活感があった。この、物語上 必要というのは、たとえば、少年は片親に育てられている母を知らない孤独な少年で、その少年にいつも優しくしてくれているレストランの給仕の女が、あるとき、二階の部屋に彼の父親をともなって鍵を閉めた。気になった少年は、鍵穴から二人がなにをしているのか覗きこむ。ドアからは女の「好き 好きよ 愛してる」という嬌声が流れてきた。

少年はそれから数日後、その人に、僕のお母さんになってよ、と言う。女は、「そんな、無理よ。だって、あなたのお父さんの都合だってあるでしょ?」と。そこで少年は、でも、お父さんに、愛してる、って、言ってたでしょ。と。 あれは...... と顔を赤くし言い淀む女。

少年は数日後、またその店を訪れた時、二階からまた例の声が聞こえてきた。あれ、でも、今日はお父さんは仕事のはず。そう思って鍵穴を覗いた少年は、女が知らない男と寝ている姿を見る。「好き 好きよ 愛してる」という例の声と共に。 女は娼婦でもあった。


これで、お話が終わるわけではないし、あくまでも、地獄のアリスのなかでは、この給仕の女の人間性の外観と少年の女に対する母親希求願望を提示させ、そのあとに、なぜ少年が現在の様な心的外傷を患うに至ったのか説明する、序章に過ぎない。しかしその心的外傷を経るためには、どうしても、給仕の女と少年の経緯(いきさつ)を描かなければならない。

でなければ、人は感動できないからだ。

人は、断片には感動できない。

たとえば、涙なくしては観られない大傑作と言われる映画があったとして、それを十秒毎に分割する。そしてそれらをランダムに、それらの総上映時間になるように、継ぎ接ぎをする。

その映画を観た人間は、感動できるだろうか。

人は物語に感動する。

では、物語とは、なにか、それは過去に起きたことが現在に影響をもたらし、現在で起きたことで得られた知見で過去を遡り、そこでまた新たな視点を得、その視点がまた新たに現在の状況を活性化すること。

そのためには、人の思考が、思考を可能とする、前と後の時間的空白の無さが必要となる。
それはなぜか、思考とは、言語であり、言語とは、前後が作用しあうものに他ならないからだ。

人間が“物語”以外で感動するには、新しい言語が必要だ。

そういう言語は存在するのか。
存在しなかったとして、それは開発可能なのか。また、開発することで得られる利益は?


と、ここまでにして、とにかく、そこで描かれたセックスには、必要性を感じさせられた。

ところが、パラダイスパラダイスの中での必要性は、嫉妬深き神の呪いを解くためという、あまりにも現実とはかけ離れた条件付け、なぜ、女の子が二十歳を越えて死んではいけないのか? <女の子を助けるのに理由がいるのか?>だそうです。 いや、まあ、そうなのだが。可愛い女の子を助けるのに理由はいらない。しかも、セックスしなければ助けれない。タス・タ・タタタタスケル・・・シカナイ・・・・こういうハッキングされた脳死状態の機械生命体の思考能力を私は彷彿とさせてしまうんだが。そういう行動方針は。  まあ、それが作品全体にも表れているように思いますが。いままでの、岡本倫の作品には街がありましたよね。そしてそのディティールがリアリティがあった。たとえば、女の子とデートと言っても、カラオケとかアイスクリーム買ったりとか、映画とか、それだけで、リアルが生まれ、男の理想が啓発されると思うのですが、ドラゴンや巨大オオサンショウオなどが出てくるファンタジー世界では、そういう理想は刺激されない。


これは、ファンタジーを題材にとったことがいけないのではなくて、ファンタジーはあまりにも可能性がありすぎるため、その可能性を充分に発揮しなければ、5LDKに家具が一つしかないような、物足りなさを感じさせてしまいます。いまの、彼の作品がまさにそんな感じ。


セックスの話に戻りますが、松本次郎やムシヌユンで描かれているような、エロ漫画家ではない作家のセックスシーンには、その男のセックスに対する欲望は、確かに、その漫画の紙の数ページをコマの隅から隅まで埋めてしまうだけの、全世界性があると読者に思わせるが、世界はそれだけではなく、物語の裏では様々な思惑(おもわく)が駆け巡り、この、男と女のセックスもこの大舞台で上映されている劇の小品に過ぎない。そう思わせる力があると思います。


ですが、岡本倫のパラレルパラダイス、これはどうでしょう。
たしかに、ヨウタは、セックスが目的ではなく、彼女たちを救うことが第一であるかのような、精神的虚勢者のような面をし、また、それにふさわしい発言をしています。さすが、岡本倫です。わかっています。そうです。セックスに耽(ふけ)るような人物を描いてしまうと、エロ漫画になります。

でも、でもです。深みがない。人物に生命力を感じない。彼女たちは、概念のようだ。人がその人の命を助けたいと思うのは、その人が概念を上回る量、質量を抱いている場合じゃないのかな。

まあ、結構です。

可愛い女の子とセックスしたい。
しかも彼女から一方的に求められる男性優位の状態で。そしてその世界での男性とは、ある人物の固有名詞でもある。なぜなら、男は一人しかいなかったのだから。
女の子をドラゴンやプロレスまがいのマッチョなオッサン群から守りたい。
そして、守って、女の子からチヤホヤされたい。


もしかするとですね、脚本とか、物語としての深みとか、そんなことは、いまの岡本倫さんにとっては、どうでもよいことで、さっき言った項目さえ充たされていたら、僕が描いた漫画の存在原因は全うされています。

と、おっしゃられるのかもしれません。

私は、そんな漫画があってもいいと、おもいます。私は彼の描いた漫画が好きだし、二巻を読んでいる最中に何度も笑わせていただきました。上に色々と書きましたが、批判ではないです。完璧な作品ではないかもしれない。じゃあ、どこが完璧ではないのか。それを論じました。そして、完璧な作品を人間が描けるのか? とも思っています。


もし、あるとしたら、それは 完璧だ。と発言する人において、完璧なのでしょう。

広告を非表示にする

いま 死ぬ気でやればなんでもできるって いったね

なら ビルの屋上百階からとびおりてよ

広告を非表示にする