魔女と百騎兵

いま、第3章の8幕だったっけかな。

 

まで、プレイしてみたが、特に不満はない。

 

まあ、確かにレベル上がりづらい、とか、塔の攻略がストーリーと連動しているため塔だけを武器と経験値目当てにづかづかと進めることはできないとか、ローディングが長い上に、マップ移動を頻繁に要求するゲームデザイン、百騎兵という操作キャラクターが完全受動性とも言えるため、メタリカとの個人的な複雑した人間関係が構築されず、キャラゲーによくある恋愛感情の蜂起によるツンキャラのデレなどが芽生えないためキャラクターゲーなのにキャラクター性が欠けているや、そもそも百騎兵というキャラクターが根本的に魅力に欠け操作する喜びにも乏しい。

またアクション部分も深いとは言えず、装備が整えば適当に回避とガードと攻撃ボタンを押していればクリアでき、中毒性に乏しい。にも関わらずディスガイアばりにやり込み要素が配置され、開発者はこの程度のアクション性で何百時間遊ばす気なのかと。正気を疑いもしますが。

 

それでも、不満はない

 

です

 

もうね、惚れてるんだろうね

 

この音楽とハラタケさんの絵と、このキャラクター達の性格造形、およびそれに声をいれた声優の演技

 

それらの匂いを色濃く残すことのできる、この日本一ソフトウェア、というデペロッパーに

 

 

ストーリーは、あはあはなるほどと

 

メタリカが未来から過去に送られたと仮定したとしても、なぜ、メタリカは記憶を失っているのか?

 

そして、アレルッキーノやマーリィがメタリカをリカと執拗に呼ぶのも、記憶が失われていない証拠だと考えられるため、違う世界線から来た、とかそんなものではないはず。だが、面白いのが、先述した塔のお話も同時に進行させることができるのだが、そこでは明らかに違う世界線から来た、的な話の流れなのだ。

 

この謎に満ちたストーリー展開がたまりませんね

 

 

 

ROMA

いや、たまげましたね。

 

僕はね、当初、もうこの監督の作品は二度と絶対観るもんか、と大きく突き放していましたよ。

画面は動かんわ、主役が美しくないわ、というより、脇役が主役として意図的に配役されているとも言うべきか?映画的な旨味に乏しい起伏のない平々凡々たる土着的な日常

 

いったいこの監督はなにが見せたいねん

そして、なんでシロクロやねん

ここ、2千年代なんやで?

 

と、時代背景を加味しても、そのモノクロであることに必然性を見出せなかった

 

 

 

この映画を観るにあたり、なんども、観るのを中断した。そのあまりの退屈さに。

 

だが、上映終了が40分に近づくと画面から目が離せなかった

 

 

この、最後の30分が、この作品のこれまでの過失をすべて帳消しにしている。

 

過失とさえ、認識できなくなる

 

私は兼ねてより、置きカメが嫌いだ。

というよりも、置きカメを頻繁に使用する映画で好きだった映画が記憶にない

 

置きカメとは、こういう意味である。

「わたしは存在しません。わたしはこの作品を撮ってすらいません。世界とは、こういうものです」

 

こういうスタンスのもと、作品が撮影されている、ということです。

 

世界とは、残酷だ

 

一種のジャーナリズムですよ

 

従って、このROMAも、与えられたテーマは、世界が残酷である、ということを表明することだ

 

 

もうね、ぼくは、この作品に、あーだ、こーだ、言いませんよ。

 

少なからず、文字にすることじゃない。

友達が一人も居ない僕に映画好きな友達が一人でも居れば、その友達と、あれは、あーでね、あそこはこうなんだよね。

と、少し口にする程度におさめておくべきですよ。

 

 

ひとつだけ言えるのは、

 

映画というジャンルは娯楽であって、芸術ではない

 

としても、

 

この ROMA に俺は、崇高な光を感じた

 

その光は名状しがたいほどに、哀しげで、エーテルの透明すら、自らの存在の主張を恥ずかしんで自らに色の名を与えたくなるほど、しずんでいた

 

 

 

これから、観る沢山の映画があったとしても、それは芸術だろうか? と疑問符を打たざるをえないだろう

 

 

ここまで、綺麗な、ここまで、芸術だと、思える映画が、今後、生まれることは可能なのか?

 

 

疑問だな

 

 

 

最後に、

 

 

大人とは、永遠に笑えなくなった子供である

偽りの笑顔を正しい涙でしか拭うことのできない子供である

 

 

 

 

 

 

 

悪魔のいけにえ

この2日間に観た映画

  1. グッドフェローズ
  2. ワイルドなスピード AHO MISSION
  3. 悪魔のいけにえ

 

グッドフェローズ

映画としては可もなく不可もなく、未視聴の人間を最後までは閲覧させる程度。

個人的な意見としては、このマーティン・スコセッシが関与したものを二度と観たくはないとさえ思える代物だった。

なぜ、この作品が、あるいはマーティン・スコセッシが社会的に評価されているかまったく理解できない。

カタギの人間を組織的暴力による恐怖で縛り付け、金銭を強奪し、たとえ身内だろうと、組織中枢に近い人間の保身の為に、不意打ちに近い形で殺害する、ギャングである主人公ヘンリーは、毎日通勤電車で汗水垂らして働いている人間を、玉無し野郎と罵り、欲しいものがあれば、力で奪い取る、と豪語する。

こんなクズ野郎が主人公で、なんで観ていて楽しい、なんてことがあるんですかね?

このヘンリーという男がですよ、一人で闇煙草をさばき、一人で架空のクレジットカードを作成し、一人でカタギの人間に銃や拳を使って暴力をふるい、一人で強盗をし、一人でクスリを売りさばいて自分の欲求を社会という軛にかけないという信念の下、実行していたのなら、まだマシですが、このギャングであるヘンリーは常に誰か他の男と一緒に居て、マフィアという巨大な後ろ盾のもと犯罪を犯しています。

 

つまり、群れなければ、イキがれないんです。

ただ、群れているだけなのに、それを自分の力だと勘違いして、一生懸命、ルールに従って誰かを不幸にすることでしか利益をあげれないギャングのようなやり方で働いていないカタギの人達を玉無し野郎のコシヌケだと罵倒するヘンリーやその一味は観ていて興味を覚えない

 

俺はね、働いている人達が善人だとも思っていない。確かに、彼、ヘンリーが言うように、一部の人間は仕事を下らない仕事と考え、もっとウマイハナシがないかな〜と、日々首を回し、犯罪も視野に入れているかもしれない。でも死ぬリスクがあるかもしれないから、そうはしない。だから、ヘンリーは彼らを玉無し野郎だと罵った。

 

この手の話題はとかく、人を美談に持っていってしまいがちだが、俺は美談を語るつもりはない。

 

ヘンリーのことをクズ野郎だと俺は言ったが、正直、俺がヘンリー以上のクズ野郎ではないと考えているわけではない。

俺は、人間という人間は、みなクズだと考えている。

つまり、程度の、問題なのだ。

 

このクズという概念は。

 

だが、クズはその存在の本質からしてクズなのであるから、この程度もあまり意味のない観念だ。

 

泥沼に臍まで浸けているか

踝まで浸けているか

 

の違いであって、泥沼に身体が触れている、という根本的事実は変わらない。

 

一部でも、泥沼に身体をひたせるような人間は、全身を泥沼につけることは不可能であると考えることは到底不可能だった

 

 

まあ、だから、なんだ

 

人間をより嫌いになりたい人なら、この映画でその目的が果たせるだろう

 

とだけ言っておく

 

 

ワイルドなスピード AHO MISSION

名前からして、AHOだが、私はこの映画存外好きだった。ぼくはね、数々の映画をクソだのゴミだのと評してきた。そして、この映画を観た人間の多くが、この映画を、クソだのゴミだのと評することだろう。だが。わたしは言おう。

 

この映画が嫌いではないと。

 

人を笑わせる為にだけ映画を作るとこうなるんだなと、

俺はコレを三流映画だとは言いたくない

芸術、なんてクソくらえ、

お堅い評議員がお堅いネイビーの眼鏡をかけて、映画というジャンルをどうにか芸術という歴史ある古典的な概念にまで昇華させようと、ベネツィアやカンヌやカタロニアで会合を定期的に開き云々されるような映画なんて、クソくらえ、とそんな製作者の声がきこえてくるようだった

 

俺は、こういう突き抜けた映画が好き

 

 

悪魔のいけにえ

マリリン・バーンズという女性が中盤以降頻出するのだが、彼女がいたから、この作品は多大なる名声を手に入れたのではないかなと。

仮に、アレが、金髪碧眼、美人、巨乳、そしてなぜか乳首も見えている、あるいは乳首すら見えてしまいかねない生地の紫色のトップスを着てしまっている本人のファッション趣向、のない、毛むくじゃらで、取り立ててイケメンでもなんでもない男性俳優が、彼女の代わりを演じていたなら、確実にこの作品の評価はガラッと変わっていたでしょうね。

 

だからこそ、俺は、この映画を評価することはできない。それは、構造や、脚本や、演出に、穴がある、あるいは魅力のない欠陥作品であると主張するようなものであるから。

A5の黒毛和牛をただ塩を振って焼いたものを、美味い、と言うことは、それが料理人に向けられていない場合に限り、虚偽ではないからだ。

 

テーマとしては、牛を延々と殺している人間は、自らが、ハンマーで頭をカチ割られそうになると、必死に抵抗する。生にしがみつこうとするその有様は寡黙に死を迎える牛とは違い、無様であり、醜悪ですらあり、その醜悪さとは人間主義の醜悪そのものである、というような人間第一主義を遠回しに批判することのように思えたが、実際は、そんな高邁な風刺精神からこの映画が誕生したとは凡そ考えられない。

 

どちらかというと、リアリズムの人間がメガホン撮った、という感じだ。

作中のラスト近くに、この作品のポスターにも使用されている、目が極度にクローズアップされるシーンが何度もでる。

あれは、ぼくたちに、まさに、彼女が、いまげんざい、生きている、ことをまざまざと感じさせる。血管すら見えてしまうのだから。だが、彼女は生きているのにも関わらず、死んでいるのだ。

 

この生と死の強いコントラストは

白と黒の対比が印象的な油絵を想わせる

 

ラストシーン、夕日に照らされ、レザーフェイスが高らかに遠吠えをあげながら、クルクルとチェーンソウと共に回る姿は、荒唐無稽でありながら、どこか人間存在の根拠のなさを感じさせる影のようでもあった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブリーダー

最近見た映画、

  • ラストミッション
  • コロンビアーナ
  • エクスティンクション
  • パンズラビリンス
  • ブリーダー

 

 

ラストミッション

ケビンコスナー演じる工作員イーサンが仕事で分かたれた家族との絆を再生しながら、持病を快癒させる治療薬を得るため、病気を機に一度は足を洗った仕事に戻り、最後の、ミッションに挑む。はたして、どちらの意味での、最後のミッションになるのか!?ーーーこの映画は彼女との休日に映画でも見るかと、軽い気持ちでデートへあなたが赴く時に申し分のない効果をあげることを約束するだろう。そんな、ありふれた日常のありふれたデートのありふれた映画館内でのあれふれた良作映画だ。この映画は確かにひきこもりが猛暑日だというのに地を這ってでも外に出て閲覧しようとするほどのものではないし、この映画に極度の感銘を受け、土木作業員だった無名の若者を無名の新人映画監督に引き立てることもないのだろう。だが、こんなあたりさわりもない映画があるからこそ、わたしたちは駄作や傑作などと基準値からの異常値をはじきだせるのだろう。

 

コロンビアーナ

この映画を観て思ったのが、わたしたちが必要としていることは、こんなにもシンプルだということだ。中だるみしない構成に、キレのあるアクション、ところどころ、差し挟まれる絵画的な静止画、この三要素さえ満たされていれば、わたしたちはこんなにも、席を立つことを考えずに映画を最後まで鑑賞することができるのだ。映画を観るわたしたちは、水中なのに目が乾いている魚だ。この映画はわたしたちに、水ではけっして湿されることのなかった眼球に、再生機に入った光学ディスクで応えてくれる。

 

エクスティンクション

この映画は確かに、駄作だろう。

ひねりのない脚本に、巨万の資金を必要とする仰仰しいCG技術で、内容の軽薄さを隠蔽するという、昨今の撮影費だけはトリプルA級の書割映画のご多分に漏れてはいない。

だが、不思議と憎めない。この映画を見を終わって、確かに時間を無駄にしたという感想はいだけるのだが、それ以上の憎悪というものを、この作品に抱くことはできなかった。

この作品の失敗点をあげよう。

まず、メスキャラ、と呼びたくなるほどに、出てくる女児がことごとくウルサイ。序盤以降のシーンというシーンに女児が映されれば、ことごとくビービーと音を立て泣き叫ぶカットが表示される。

人間が泣くシーンには、以下の意味がある

  1. 普段は気丈な人間が心をゆるした人間の前でのみ涙を流すことで、鑑賞者に人物同士の会話を通さず人物が人物に抱いている認識を共有することができる
  2. 恐怖を音や表情に置換することで、鑑賞者にその恐怖が伝播しより作品を身近に感じられる

 

つまり、あの悲鳴は後者に位置する悲鳴なのであるが、そもそもこの作品は、ホラー映画ではないため、恐怖する対象が存在せず、鑑賞者の心は空中に置き去りにされた空中ブランコ同然となる。

 

第2に、この作品には思想性が皆無だ。

いわば、出落ち映画なのだ。

20分程度のSFアニメで描くことのできる内容しかない。

映画を観る私達は、決断に惹かれるものだ。

この人物がどういう文脈にいて、最終的にどのような決断を下したのか、という監督の思想性すら垣間見得てしまうあの一瞬だ。

この映画は、ラストシーンから、やっと始まらなければならないのに、始まることなく、終わるのだ。

 

いわば、あの有名なSF映画、アイランド、ありますよね?

主人公がアレを観たのに脱出することなく、2時間近くウヨウヨしてあの隔離施設で映画の上映時間を終えた感じ

 

それが、このエクスティンクション、ですよ。

 

そもそも私はアンドロイドものが好きではない。

本当の意味で、かつて映画関係者が、アンドロイドを描くことができたのか?  と、思いますよ。わたしがまだ観ていないだけかもしれないが、そんな映画があるとは楽観できないのだが。

 

パンズラビリンス

君が今後これを観ようというのなら、止めはしないが、もし、君がこれを傑作などと言おうものなら、今後、君との交際は末永くご遠慮させていただきたい。

 

もうね、ぼくはね、このギリギリデルトモだったか、マルマルモリトモだったか、なんだったかはしらないが、この監督を叩く気力すら残っていないよ。

もう、いいんじゃないかな。

この監督が作ったものが好きなら、好きで。

この監督は死ぬまで映画を作るだろうし、同時に死ぬまでまともな作品一作も作れず、大量の金を吐き出しながら駄作を死ぬまで生産し続けることは決定しているんだから

もう、いいですよ。

ぼくはね、この監督のメンタルの堅さだけには敬服する想いだよ。

もし、ぼくがあんな作品をかくも多量につくってしまったのなら、自己不信に陥り、二度と作品を創る気力が湧かないだろうね。

 

ひとつだけ、残念なことがあるとするのなら、デスストランディング 、あれにでるんですよ。ギレルモデルトロが。

 

ぼくはね、マッツミケルセンもニコラス・W・レフンも好感を持っているので、非常に彼らが出演すること自体には好意的なんですが。なぜ、彼が? 

友情出演? 友情ってなんやねん

小島さんがなぜ、デロトロ氏と交友関係があるのか不明。

 

話はそれますが、彼の作品をすべてプレイしたわけではないが、mgs4の演出やムービーシーンおよびスーツによって飛躍的に身体能力の強化された謎めいた、それぞれ生物をモチーフとする美女数名がボスとしてスネークの前に立ちはだかり、面をクリアする毎に、地理が移動しプレイヤーの目すら旅行的な気分に浸らせるそのゲームデザインは、たしかに、ホンモノ、だった。

だが、mgs5だけは好きになれない。

ホントにこれは、あのmgs4を作ったコジマカミナンデスの作品なのか? と5の冒頭でスネークが燃える男かなんか知らんがそんな得体の知れん存在に戦車がふっとばされ、兵士が蹂躙される、どこかで観たような何の変哲もない凡庸極まりないムービーを観た時、思わなかった人間は、信者と揶揄されなければならないだろう。良いファンとは、けっして首を縦に振るだけがその条件ではないと思う。

わたしはね、正直言うと、mgs4路線のゲームがプレイしたい。

PT、ありましたよね。

ギレルモと小島監督が組んでたけど、オシャカになった、あの伝説?のホラーゲーム。

あの路線で良いんですよ。

オープンワールドというゲーム形式で、小島氏の魅力が活かせるとは思えない。

彼の魅力は、彼の血液の70%が映画で出来ているように、その極めて洗練されたカメラ演出とキャラクターが最大限活かされるオブジェクト活用能力にあるのに。それが、このオープンワールドという毒牙にかかると、すべてが瓦解してしまう。

 

むしろ、なぜ、オープンワールドなんて導入する必要性があるのか?

私が思うに、ゲームとは、前進するしかないだろう?

それは、東や西や北や南ではなく、やはり前しかないのだ。その前進するという直線的糸にわずかな弛緩を与えるのが、このオープンワールドというシステムだと思う。

 

提示してくれ。

俺たちに

弛緩などいらぬ

緊張した線をくれ

 

小島秀夫さんは、映画監督にならなかった理由に、ぼくは改良し続けてしまうから、と述べています。オープンワールドではない限定的なプレイングをプレイヤーに与えることは、もはや改良不可能性の象徴たる映画というコンテンツを創作することに近似しているから?

 

breeder

うん、最高でした

良い映画でした

リッケ・ルイーズ・アンデルソン演じるルイーズは日本人的可愛さがありました。

ああいう、ロクでもない男を愛してしまうどうしようもない女っていますよね? まさにルイーズがそれ。でも、いわゆる、メンヘラ女ってわけじゃない。でも、どこか彼女には男をダメにしてしまう、危険な香りがありましたね。あの守ってあげたくなるようなキュートな容姿。背中を丸めた後ろ姿はそれが更に際立つ。

この映画を見終わって、なんでレオは子供が出来たからといって、あんなことをルイーズにしたんだろう。と最後まで観てもわからなかったんですが、そこに意味はないのかも。いわゆる、筋書き、というやつ。でも、薄っぺらくない。どこぞの、ギレ、なんたらとは違って。この違いはなんなんでしょうね?  まあ、いいです。

 

そして、単純な問い掛けとして、レオとルイーズは不幸せだったのか? ということ。物語ラストシーン近くで、レオとルイーズは電話を交わす。あのシーンの2人は果たして不幸せだったのか? 

 

俺はさ、やっぱりそうは思えないんだよ。

この映画は、あの2人の関係性をどう解釈するかで見方が変わると思う。

俺は、あの2人は幸福だったんだと思う

暴力を振られても、子供がそれで流れても、それでも、あの2人は青春してたんじゃないかって

 

兄のルイスは見た目はDQNで、人格破綻者に見えなくも無いし、実際、言動もスラブ人に対して荒かったりするが、レオに対して行った所業によって、嘔吐していたりするあたり、彼が根っからの悪人ではないことが窺える。むしろ、レオが映画観賞中に行った彼への行動にも、寛容な対応を働いたあたり、妹想いで、その妹の大事な恋人も大切にしてあげようという、優しいお兄さんだったとすら言えると思う。

 

彼は、どうしたら、よかったんでしょうね。

妹が暴力を受け続けるのも指を咥えて観てたらよかったんでしょうかね?

 

そして、最後にレニー、マッツミケルセン演づるレニー。

 

最高でした。

 

映画オタクで、女性に奥手で、ポルノに興味のないイケメン(オタク)

まあ、なんて素敵!

話しかけられる、女性が、さ、なんかね、あまり嬉しそうじゃないんですよ。

なんでかな、と思うんですが、そこもこの作品に深みを与えていることに成功している。

このレフン監督というのは、人の人格性に肉薄するのが上手い人ですね。

彼女は所謂、文学少女、なんですよ。

つまり、自分に自信がないけど、自意識自体は過剰な、あのタイプだと言いたいんです。

彼女はね、つまり、話しかけられて嬉しくなかったことはないんです。

実は嬉しかったんです。

でも、こんなカッコイイ人が私に何の用かしら?って、からかっているのかしら? って、そう考えると、急に可愛くおもえてきますよね。

そして、これが私の妄想でないことも、レフン監督は提示してくれる。後半にそれを知ることのできるある行動を彼女が自室でとる。

 

レニーのあの行動には、多くの人間が、なんで? って思ったことだろう。

でも、それにもレフン監督は終盤の葬式のくだりで解答を置いてくれた。

あの解答を見て、ああ、彼って、レニーって、そういう人なんだ、って、察することができる。

 

 

最後に、このような映画であるにも関わらず、冒頭に、まるでこれから対象年齢10歳向けの活劇アニメでも始まるとでも言わんばかりのコミカルなネームタグと楽曲を選定した、彼のセンスは、ホンモノだ

 

 

おもしろい映画を撮るのに、金はいらない

 

要るのは、才能だ

 

ニコラス・W・レフンという1人の作家がそれをこの映画で教えてくれた

 

俺は、まだ、ドライブもネオンデーモンも観てはいないが、恐らく、彼の作品では、このブリーダーがいちばんの俺の気に入りそうだ。

なんだかそうおもえてしかたないんだ。

ドライブでもなくネオンデーモンでもなく、傑作といったら、このブリーダーだってね。

そう俺の中のゴーストが囁くんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

雑記

今回、パシフィックリムを観たんですけど、ギレルモデルトロ氏の作品はクリムゾン ピーク とパンズラビリンス(母子が寝るまで。余りの退屈さに鑑賞を中断)を観たことがある。

 

クリムゾンピークは長い。

不出来な監督が撮る多くの作品の例に漏れず、とにかく長い。展開が遅い。

話が始まるまでが長い上に会話が全く楽しくなく、すべてが安い。安いメロドラマを、鑑賞者は強要される。唯一、この作品の褒められたところは、視覚的な美しさ、このタイトルにあるクリムゾン・ピークという語をある種の形容表現に置換することも能うほど、絵的な美しさが追求されていた作品だと思う。だが、氏には、リュックベッソンのような、本当の愛は、(愛、というと、陳腐だな。情緒とでも言おうか。極めて土着的な)描けないんだろうな。

 

臓腑がないわ。すべてが、演技めいている。

すべてが茶番。

 

パンズラビリンスも観たが、さっき言った、安いと、長いは共通する点だな。

そのうえ、好きになれない妖精のデザイン。

不潔であり、下品ですらある

そのうえ、無罪の親子2人をナチの総統めかした主人公の継父が銃殺するという胸糞の悪い話の展開

主人公が妖精の国に帰還したいと思わせるマクガフィン的存在であったとしても、もう少しあったでしょうに。そもそも、上記の姿形的理由から妖精の国に惹かれないため、少女にとっての救済者としての装置と見なすことが困難。

 

 

うん、この監督とは気が合わないんだろうな?

 

でもね、まってくれ、ぼくもなにも、不愉快になりたくて、わさわざ観る前から駄作だと貶さなくてはならないような作品を観ているわけじゃない。

 

 

私は今後、映画という映画をしらみつぶしに観ていこうと思っている

 

計劃とまでは、いかないが、そうだな、個人的嗜好、猫の尻尾のような気分に基づいて、といえるかな。

 

そのためには、ある程度、広くカヴァーしなくてはなりますまい?  

明らかに自分の好みではない作品であったとしても、それが話題となっていたり、その監督の代表作とも言える作品ならば、一度は目に通さなくてはならない。

でなければ、映画を鑑賞したとは言えないだろうから。

だから、ヒッチコックなんていう手垢にまみれた監督のサイコだってブツクサ言いながら観たし、悪魔のいけにえなんていう、観る者の神経を疑う下劣な作品だって耐え忍んで観ようとしているんだ。(ぼくはスプラッターが嫌いなんだ! 残酷なのも嫌い。グロテスクなものを見た途端、失禁したり、目眩がしたりするような手合いではないが、率先して人が傷つくのを見たくはない。でも、勘違いしないでくれ。僕は別に善人ってわけでもない。人並みに人が肉体や心が傷ついた時に流す血を見ることに感奮を覚える下衆ですら、あるかもしれない。が、それが概念であることが条件だ。いわば、ゲームやアニメーション内での裂傷。実写じゃないんだ。私が興奮するのは。つまり、その、裂傷が、物語上、コミカライズされ、一つの記号であることを望む人間。それが僕という人間なんだ)

 

 

ま、なんだかんだ言っても、いくら映画を観たと言うにしろ、どうしてもこれを観てよ、と人に勧められない限り、一度見たことはあるが、好かなかった作家のは観ないよ。やはりね。

僕にとっては、作家性さえ、知れたらそれで御の字、ということ。

 

そして、好きになった監督の作品は深く掘り下げて、すべて鑑賞しよう

 

リュックベッソン、最高!

 

むかし、96時間という作品を観たことがあるんですけど、

そのアクション性の高さ、展開の速さ、娘に対する父親らしい素朴な愛、工作員のノウハウと追跡力を駆使したサスペンス、そしてラストシーンの逆走、これ、どうやって撮ったんだ?っていうね。

観終わった時、気持ちのいい映画をみた、という感想を抱いたと記憶していた

まさか、彼が一枚かんでいたとはね

 

 

もうね、リュックベッソンの女性に対する姿勢が好きなんだろうね。美しく女性を撮ろうというね。女性とは、救済であり、女神ですらあるんだっていうね。

また、音楽に拘りを感じるし。僕は音楽が好きなんですけど、今もこれを書きながらも曲は鼓膜を振動させている。わかるんですよ。拘りがあるんだっていうのがね。

そして、女性だけじゃない。添え物、としての、男性がいない。男性がカッコいい。我のある曲者もいる。カッコいい、といっても、ナルシスト的なカッコよさじゃない。ニキータの、マルコとボブ。カッコいいですよね。

 

ああ、もうね、最高としかいいようがないですよ。

 

 

これから観る彼の作品にも若しかしたら拙いものもあるかもしれない。

でも、それでも、一緒に落ちていきたい。

そうまで、思わせる魅力がある

耄碌しても、彼の作ったものを追いかけたい

そう思わせる魅力が

 

 

 

話は戻りますが、パシフィックリム、

この映画から学べたことは、東洋人、特に日本人を洋画に起用することついて、です。

 

鑑賞した多くの人が思ったことでしょうけど、日本人合わないな、ということです。本作が、カイジュウという日本の特撮を根底に描画された作品であるだけに、日本人を出さないわけにはいかない、ということなんでしょうけど、それにしてもあわない。

 

この違和感はなんなんだろうな、と思ったんですけど、それはやはり日本語を喋らないから、なんでしょうね。日本人女性の美しさは日本語を使うことで初めて機能する。ということですよ。

 

いやですよ、これがねアメリカのマンハッタンかニュージャージーでもどこでもいいんですけど、そこで日本とアメリカを頻繁に経由しながら成長したバイリンガルの日本人女性がいて、生活していたとするじゃないですか。それは、アリなんですよ。アメリカで映画を使う日本人女性が居ても。それは不自然ではないんですよ。

 

でもね、映画は違うんですよね。

映画における、女性、しかも、ヒロインとは、魅せ方、その人物の性格や魅力を決定付ける演出を製作者サイドが要求し、また要求される存在だと思うんですよ。

 

で、じゃあ、東洋の、というか、日本人女性の美とは何かって考えとき、溶暗として輪郭が明としないにも関わらず、その者が美しいということだけは分かる。そんな妖しげで、寡黙で、人間を超越した存在だと思うんです。それがね、どうですか、are u oky?とか言ってペラペラと英語でフランクに現地人と喋り出したら、台無しでしょ。

菊地凛子ではなく、英語圏育ちの英語を話す日本人だとしても、それは駄目でしょうね。

だってそれは、もはや、日本人、ではないし。

日本人とは、日本の文化的土壌と日本人と日本人で形成された社会集団の中で形成される一種の傾向的な内在的自我のことなので。

そして、いくら日本育ちでネイティブ同然に英語が喋れる日本人であったとしても、やはり洋画にはあわない。

それは、なぜか、それは、理解されていないからですよ。日本人が。

映画、ですよ?

あるのは、設定ですよ。

これがね。実生活で、日本人を愛するアメリカ人、が居たとしましょう。それは、その日本人女性を理解しているかもしれません。でも、彼女を理解しているのはそのアメリカ人1人だけだし。

そして、映画の撮影現場とは、実生活ではない。

この、理解されない、というのはですね。

彼女を、ではないんですよ。どちらかというと。

菊地凛子という人間自体は、それは関与した人間は、性格なら、仕事に対する矜持とか、考え方など、理解された部分は多少あるかもしれません。が、日本人とは、外人にはできない、微笑とか、ちょっとしたことでのお辞儀とか、手のゆらぎとか、正座にあるものなので。

それは理解できないでしょ?

だからね、彼女は、映画に出演した、日本人である彼女は、自己を発揮することはできない。

いわゆる、「洋風の愛され方を許容するにとどまる」ですよ。だってそうするしかないじゃないか。「洋風の愛し方しか実践しようとしない、洋風の愛され方しか知っていない映画の製作者」こんな連中の描く筋書き、台詞が、日本人女性を表現できるわけがない。

 

 

 

 

そういったことを深く考えるキッカケをくれたギレルモデルトロ氏には乾杯

ですね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニキータ

この映画以外は映画ではない

 

そう僕に言わしめるほど、映画という媒体に必要な要素がすべて揃っていたように思う。

 

美しい女

抑制の効いたアクション

文化性を感じさせる台詞

スクリーンショットを撮った時に絵になりうる美的なカメラ配置

それらを抵抗感なく鑑賞者に感受させるセンスのよい選曲

中だるみしない脚本、しかもただテンポが良いだけでなく、物語を進行させ物語を完遂するという意志以上のものを感じる、一歩の重みがある。それでありながら、鑑賞者に吐き気と頭痛を催させる梅雨のような陰湿さがない。

 

 

まさに完璧

 

完璧な映画

 

リュックベッソン、恐るべし

 

 

最近見た映画にさ、パシフィック・リムとか、夜明けを告げるルーのうたとか、バトルオブアトランティス(20分程度)とか、クローバーフィールド パラドックスとか、クローズド バルとか、スイスアーミーマンとか、スノーホワイトとか、かの有名な映画界の大家ヒッチコックのサイコ、とか、悪魔のいけにえ、(冒頭だけ)とか、スピルバーグのマイノリティリポート(1分だけ)とか、ティムバートンのビートルジュースとかがあるんだけどさ。これがさ、どれもこれもク◯ソおもんないのよ。いや、ほんとに、◯ッ◯おもしろくないの。なんで。こんな映画を撮ったのか? 

 

この映画に投ずる金があるのなら、100万に一人の奇病に罹病した少年とか、類稀なヴァイオリンの才覚を発揮しながら、事故で指が以前のようにはうごかなくなった少年に次世代的な義手を送るため開発機関への投資とか、スラム街でアル中親父の暴力に虐げられながら荒んだ毎日を送っている子供たちや道端の浮浪者に良質な環境を送らせるべく然るべき機関を発足させ運営資金にその金をまわせよ。

 

と、僕はおもいましたよ。

ゴミみたいな映画でしたが、そのゴミみたいな映画の背景には、そのゴミみたいな映画を華美に取り繕い然も価値のある代物に見せたて民衆を扇動しどうにか制作費を回収しあわよくば黒字にしたいという悪しき広告産業(という名のスポンサー)と密着に接した映画の制作サイド、そしてそれらの愚行に対して迎合的な民衆という、この腐った映画界の構造そのものが鎌首をもたげとぐろを巻いているんだなと思いましたよ。

 

本当に必要な人の為に、お金は使われるべきじゃないかな。

もし、映画が、本質的に、人を幸せにするためのもの、(もちろん、監督や関係者がそんな功利的な思考の元、作品を作る必要はない。ただ、熱意とか、渇望とか、絶望とか、天稟とか、そういったものは観客に届くと思うし、確実に、作品のクオリティアップに直結しているため、結果的に、余りのクオリティの高さ、センスの良さに、起因して、人を幸せにするんじゃないかな)

なら、今の、というか、今も昔も、傑作などと言われているが塵芥のような粗製を乱造し、その都度に消費される映画界の莫大な金と降り積もる民衆の無駄な二時間程度の限られた人生の時間は不適切な消費のされ方なのではないか。

 

つまり、私が主張したい事とは、真に価値のある作品を作れる極めて優れた製作陣にしかメガホンを握らせぬため、厳密にして崇高なる能力審査をするべきなのではないか?

 

ということ。

 

 

ああ、そうそう、最近見た作品に、ブラックミラーの1、2話もある。結論から言うと、僕は嫌いじゃなかった。つまり、クリアです。僕が映像作品に期待する水準を満たしていた作品でした。1話目は動きこそ、少ないし、ラストシーンはお約束とも言えるものだが、まず、主演の奥さんが美しく、演技も良い。そして、女という生物のおぞましさ、も教えてくれる。記憶を外部化して、それを何時でも取り出し再生、分析できるようになった近未来を描きながらも、描きたいのはうわべだけのチャラチャラしたテクノロジーではなく、それらに接しても変わることのない人間のおぞましき本質、それに光を与える事を主眼とした、製作者の「したいこと」が明確に伝わる好感の持てる作品だった。

 

そして、短いのもよい。

 

あのね、僕は怒りたいよ。

なんで、さっきの塵芥と評した作品?(塵芥と評された塵芥の間違いでは?)たちが塵芥と評されたのかというと、長いから、なんですよ。

 

長い 長い 長い 長い 長い 長い 長い 長い 長い

 

とにかく長い

 

あのね、つまり、頭がないんですよ。

あれらの作品は、ほんらい、20分長くとも48分程度の内容しかない。それらを、薄く薄く、クレープのように引き伸ばして引き伸ばして焼いて撮ってしまっているからなんですよ。

なぜ、圧縮しない?

無駄なシーンは飛ばせ

すべてのシーンに意味深いなにかを与えよ

むしろ最小のコマだけで、物事を描写しようとするあまり、口頭による説明の省略や、眼差しなどのボディランゲージに依存する回数が増加するため、意識せずとも洗練されたカットが連続するはずだ

 

明示しておきたいのが、この20分、48分という時間は、単に早回しにして撮影せよ、と言っているのではなく、概念の質的問題性だ。

 

例えば、パシフィックリム、これをシンプルにしてみよう。

 

この駄作は私達の人生の時間を実に二時間近くも廃棄工場行きにさせる、が、まあ、それはそれとして、

 

まず、

  1. 怪獣の存在を鑑賞者に知らせる
  2. 空白の5年間を提示し、帰ってきたヒーローを演出するため、失踪にちょうどよい兄弟の片割れを殺す
  3. 根本的解決を提示する数学者と生物学者に作戦を語らせる
  4. ヒロインの登場、及び身体能力、知性も提示する。主に模擬戦において
  5. ヒロインにトラウマを与え、操縦時は2人による安定した神経接続が必要という設定に不安材料を与える。この不安材料を乗り越えた暁には鑑賞者にアダムとイブ的超克性を感じさせることに一役買う。が、作中では、このヒロインには怪獣に襲われたというありふれたなんの変哲もない過去しかなく、しかもそのあとケロッと2人で仲良くイェーガーを操縦していやがるので、そもそもあの下りがいらない。主人公がカッコよく、ヒロインがカワイイ。これだけで、充分よ。これだけで鑑賞者は充分食いつくし、それに付け加えて、ヒロインにデザインの凝ったピチピチのスーツを着させるとか、小気味の良い個性のある、あるいはラリった感じのセリフで場を盛り上げたら尚良し
  6. 学者が怪獣の脳と接続する、およびそれらを取り仕切る闇業者とのサムイ流れ、そして真実を知る。この流れも要らない。ここに割けるのは1分まで。
  7. 戦闘〜ミッションコンプリート
  8. オチ(実は、ゲームの中でした。とか、まだ本隊ではなかった。とか、B級的だが、そもそもこの映画はC級映画しか作れない人間がA級映画を作ろうとして作られた作品だろう? B級映画のようなコミカルな展開でもアリ。しかし本作はそんな笑うようなシーンは一つもなかったが)

 

 

 

ここまでの内容しかないので。

このパシフィックリムという映像は

 

Netflixにあるラブ、デス&ロボット、これに、同作にとても似ている構造の作品があった。

 

あれですよ。

あれがパシフィックリムのお手本、濃縮系ですよ。

 

いいですか? そのスーツという作品はですね。

17分。たった17分でギレルモデルトロが二時間も費やした眠くて仕方なくなるような作品?を描き切ったんですよ?

 

つまりね、要らないですよ。二時間も。

圧倒的に。

先程、私が提示した流れを骨格にして、最小限で描けば、1時間もかからず、終わるでしょう。

 

 

私はいいますよ。

 

作品は短ければ短いほど良い

 

 

ああ

 

それにしても、それにしても

 

ニキータ

 

ニキータは最高でした

 

もう、リュックベッソン最高!!!!

 

とならない人がいるのかな?

 

同作を見終わって

 

 

僕はね、けっして、辛口ではないです。

 

適切な評価をしているだけです。

 

世の中の人間の審美眼がオカシイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロサンゼルス女子刑務所

いやあ、さいこう、でした

 

さいこうの、映画でした

 

これだよ、これなんだよ。俺が観たかった映画っていうのは、バイオレンスで、おっぱいが見えて、セックスがあって、主役の女の子が美人で幸薄で、そのうえ、理不尽で! 

 

人生は理不尽

 

正義なんてものはない。

あるのは、社会的評価だけ。

ある概念を真実と考えるか偽りと考えるかの分離があって、その派閥の量の多寡が、その概念の真偽を決定しているだけ。

言うなれば、本当は無罪な人間が居ても、他の99人がその人間が有罪であると証言すれば、有罪になってしまう。この法廷というシステムが大多数の人間は虚偽の発言をしない、という不確定で非科学的であるかどうかもわからない「信頼」という概念に依拠して成りなっているがゆえに露出した理不尽なんだ。

 

その深刻な人生に付き物である理不尽を導入に取り入れながらも、感傷的ではない。

 

私は社会派アニメにしろ社会派映画にしろ、とにかく社会派と名の付く作品が大の嫌いである。

 

それはなぜか、

 

そんなものは作品にしなくてもよいからである。

 

そこらへんの新聞やニュースを読み漁れば、ロヒンギャ難民への迫害、ボロ材で建てられた不清潔でお風呂もないあばら屋で、一人のみならず複数の人間が寄り添い、その日暮らしとも呼べる生活をしている。若い男達はロヒンギャ人であるというだけで、雇用を失い、昼行灯のように無為に時をすごし、やっと就職しても超低賃金でこきつかわれる漁業で埋もれていくだけ。子供達は給仕をしたりするそうだが、その給仕は性的サーヴィスも含まれ、バングラディシュ人のロリコンがそれを買うと聞く。

 

中東の紛争に巻き込まれ腕を失くした女の子が絵を描くことに希望を見出し、口で絵筆を握る。

 

アメリカ南部の国境付近では今も難民が押し寄せ、子供すら留置所に拘留される現状。

 

繰り返される銃乱射

 

刃物による大量殺人

 

肉親への性的虐待を行い法廷に駆り出されながらも、無罪釈放という耳を疑う惨状

 

アフリカはマリで二つの部族が対立し、一方の組織の働いた敵対行動への報復として、当該民族を100人惨殺、時に火あぶりに処し、飼育している無辜の牛や鳥までも、経済的にダメージを与えるために焼き打ちにかける。

 

学校で虐められていると何度も先生に訴えかけていた少女は自殺する間際に、「先生もみんなも絶対許さない」と書き置きを残し、わずか9歳で人生の幕を閉じた。その教師は事件後もノウノウと生き、さして罪の意識などは持ち合わせず、関係者らの取り調べらにより、「みんな笑っていたので、いじめではなく、そういった関係性かと思い、事態を深刻に捉えていなかった。」とシラを切り、そういったいじめ問題が学校側で発覚して調査委員会を立ち上げても、同上のような毎度毎度示し合わせたかのような証拠不十分という一言で揉み消しにされ、いじめられた少年少女は社会的に抹殺される。

 

 

それが人間

 

これがこの世界

 

 

だからね、だからですよ。

ぼくはだから、社会派ウンタラカンタラが好きではないんですよ。

 

そんなものは、さっき言ったように、情報をあされば、自然と自分の中で湧いてくる。

社会派のすべての作品がする現実の残酷さや汚さを網羅することで、鑑賞者に明日からの生活態度を改めさそうなんて、ケチな真似をする必要すらないんですよ。

だいたい、個性がねえんだよ。

 

俺はさ、作家性、というものを重要視している。

社会派作品なんて全部現実の後追いじゃないか。

そして残るのは、胃にへばりついてのかない重量タンカー内の黒油のような胸苦しさ。

 

 

つまりね、なんで、俺達が作品を観ているか、っていうとさ、現実がどんなだ、現実がなにかだ、を知りたいんじゃなくて、あなたが、この作品を撮っている人であるあなたは、現実をどうやって観ているんですか? あるいは、どんなふうな現実であるべき、と考えていますか?

 

そこ、だと思いますよ。創作の領域、というのは。

そして、作家性があるのも。

 

 

このロサンゼルス女子刑務所は、冒頭から違った。務所に更迭されている最中にも関わらず、ロッキーな音楽が鳴り響く。なんでや、なんでその音楽なんや。そこは、父親にレイプされて反旗を翻したのに過剰防衛を呈した故意殺人などという解せぬ嫌疑をかけられたあげく、人生の黄金期である若かりし少女の頃に獄中生活を二、三年強いられているのだから、人生に落胆し、世界のすべてに絶望し、世界のすべてを憎んでいる時にふさわしい、レクイエムのような歌だろう? なのに、なんで、この曲なんだよ! って、まず、この音楽チョイスで、ぼくはハートを掴まれましたよ。おおむね、この段階で、この監督が、この作品をどういった方向性に持って行きたいのか、わかりましたけど。

 

でもね、音楽的な部分だけではなく、父親にレイプされそうになった冒頭の冒頭のカメラワークの良さでも、ぼくは、すでに評価していました。

 

流れるような、カメラの視点、揺れるカメラ、それはアル中オヤジの危険性とアル中オヤジの震える指先をも表現しているようで。主演のサラ・マラクル・レインがもっとも美しく映る角度で磔にされる。

頸部から血を流すアル中オヤジをみて、涙を流す乙女

 

これだけで、充分、センスは感じられましたね

 

ぼくはね、確信しましたよ。

あっ、これから楽しいことが始まるんだって 

 

 

 

結論から言うと、最高の一言に尽きますが、

いやね、ここのここが良かったとか、人物の性格造詣が緻密というか、しっかりキャラクター設計してあるなとか、例えばですが、黒人と白人のボスザルが二体居るんですけど、そのボスザルの白人の方が、主演のサラちゃんにぞっこんなんですが、そのボスザルの隣に入墨師のような女が居て、そいつとボスザルが恋人のような関係性があると匂えるような行動をとったり、なぜかというと、サラに嫉妬する素振りを見せるからです。また、サラと同室の女の子とも過去に因縁が(そのボスザルと)あるような素振りも感じれて、キャラクターとキャラクターの間にしっかり文脈があることを窺える造りになっていて非常に肉感性がありました。その同室の女の子がサラ同様に美人なんですよね。つまり、そのボスザルは面食いなんですよ。いうなれば、刑務所という穢れた場所で、彼女は穢れていない純白の薔薇を穢したいんですよ。自分色に。

 

それは、刑務所という、彼女の庭、いうなれば、免罪符のようなもの、そんな場所なら、普段社会的接点をとることすらない、とることすらできない、優等生で容姿端麗でグレてもない潔癖のような女に、合法的に加虐してもよいと認識する

 

あのボスザルは結局は、嫉妬なんだと思いますよ

グレて、ヤンキーの徒党をつくって、弱者をなぶり、勉強もできず、犯罪を犯さずには自己を主張することしかできない、どうしようもない自分でいながら、どこかで自分も真っ当に生きてみんなからチヤホヤされて可憐だと言われるような手弱女になれたんじゃないか、でも、だめだめ、私は家庭環境が最悪だったから、でもだめだめそんな美人じゃないから。そういう抑圧の中で、自分の憧れの存在をイタブリ、恐怖をあたえることで、その痛ぶっているサラ本人の中に、「自分」を焼けつけたい。焼けつけて、同化したい。彼女の隣にいれば、自分も理想の自分になれたみたい。あるいは、理想を失墜させてやろう。自分の隣まで。

 

そんな欲求でしょうねえ、

あれは憎愛でしたね

 

 

 

まあ、ここまで考察できてしまうんですよ

この映画は

まだまだあるんですけどねえ、

台詞も良かった

それは、実際に観て感じてもらえたらよいな、と思いますので差し控えますが。

 

 

最後に、サラ・マラクル・レイン、の肢体

 

最高

 

あの幸薄のような顔がたまらん

しかも細い、細いのに、おっぱいがある

 

不思議な人でしたね

 

47ぐらいに見えたりするのに、不思議と17歳の少女に見える

 

華奢で、声も細い

 

なにか、保護欲をそそるものがありましたよね

 

あの長めの睫毛が

 

あの黒目がちな目が

 

虚空を眺めていると、ギュッとしたくなります