このゲームについて

語ることはあまりない

 

 

Deth Stranding を一通りプレイして

筆者はゲーム内記録物であるドキュメントおよびメモリーチップは恐らく存在すると思われるルーシィの記録2通のみを除いて既読済み

 

 

ゲームとしては私が予見していたように、おもしろくない。

私はこのゲームを買う時、これから私はおもしろくないゲームを買うという認識の下、このゲームを購入した為、まったくその辺りについてのダメージはなかった。

私はこのゲームのゲーム性にお金を払ったのではなく、物語の行末を傍観することのできる、権利にお金を支払ったのだ。

 

ただ、こんな体験は初めてだった。これから紛れもなく面白くないゲーム体験が待ち受けているという認識を持っているにも関わらず、当該ゲームを購入するという体験は。みんな、ゲームを買う前はわくわくしながら、そのゲームの未来に想いを馳せるものですよね?

 

ゲーム性について発言させて頂くと、まず、ゲームになっていない。

ゲームですらない。このデスストランディング は。

私たちは例えば薬局に頭痛薬を買いに行くとして、その道中に行われる、歩行という両足を交互に働かせるあの行為をゲームとして認識することは可能か?

 

答えは   否   である

 

 

だが、このデスストランディング はそれがすべてなのだ。

 

肝心のミュールやBTとの戦闘の複雑さと言えば、ジャンケンをやっているほどに、幼稚で、眠たくなる代物であった。

フロムソフトウェアが制作したブラッドボーンのように様々な武器や水銀弾を利用してキビキビ動けるアクションゲームならまだしも、そもそもこのデスストランディング は移動こそが本懐であるため、当然、アクションゲームのようなアクションすることで快楽を得られるようなゲームデザインには設計されておらず、ただ、悪戯にプレイヤーの残りの人生の時間と積載中の荷物の保全状態を時雨の如く奪いさっていく、無駄なフェーズである。

 

だが、このBTとの接触は無駄なフェーズではあるが、ただでさえ緊迫感のないこの冗長なデスストランディング というゲームに与えられた唯一の眠け覚ましでもあり、また、このゲームのなぜ、人間は都市や室内に閉じこもって人々は人々との間に断絶を抱えているのか、という物語の根幹に触れる部分でもあるため、当然ゲームの流れから外すこともできない。

 

 

そして、私がこのゲームの最大の汚点であり、このゲームについて、最大の遺憾を抱くに至った点は、多用されるカットシーンの執拗さである。

 

ファストトラベルをするには、プライベートルームに入らざるを得ず、まずそこでプライベートに入りプライベートルーム内で自由に操作できるまで、三回程のカットシーンが入りフラジャイルに頼んでからファストトラベルを完了し操作ができるようになるまで二回のカットシーン、計5回、しかもこんなことはまだ序の口だ。シャワーを利用するにも2回以上のカットシーン、荷物を載せるのにも一回、荷物を受け取るのにも一回、リサイクルしようものなら、荷物を載せるのに一回、オバさんからの感謝に一回、計2回をその度見せつけられる。

 

また、カットシーンを飛ばさないというクリエイターの暴挙とすら感じさせられる部分もある。

私がBTとの接触が嫌いなのもそれが一因である。

BTが近接する度にオドラデグがキロキロ音を立てプレイヤをアップし操作不能状態を5秒ほど継続させる。また、近接が終了しても同様の演出がさしこまれる。

 

そしてこれらの演出が、偶に、ならまだしも、頻繁にさしこまれ、プレイヤの脳髄を不愉快に刺激してくるのだ。

 

BTとの接触エリアは固定で発生し、その遭遇そのものにも驚きはない。接触エリアが完全ランダムであればまだしも。しかもその設定エリアは明らかに利便性の高い、つまり、バイクやトラックなどで高速で移動しやすい場所に設置されており、折角プレイヤが気持ちよくバイクで走っているのに、先ほどのスキップ不可の強制演出が入り、ゲームのテンポを著しく阻害しているのだから擁護しようがない粗末なしろものだ。

 

 

また、本作は肝心の物語すらお話にならないレベルだ。

もとい、このゲームに、物語 などない。

 

本作はPVにあった、意味深な発言に繋がるための前段階など、存在せず、従って、彼らの発言は、意味深、ではなく、思わせぶりなだけなのだ。

 

例えば、アメリの、私の名前はアメリゴ ヴェスブッチ からとったもの。コロンブスが最初にアメリカ大陸を見つけたのではなく。だからそもそもアメリカは嘘から始まったのよ。

 

や、分離主義者のリーダーの、仮面を被っているのは俺だけじゃない。お前のボスもあの女も。そして、ああ、お前もな。

 

これらは、結局は、彼らには薄暗い過去があり、アメリ自身の存在への偽りがある。といったことを意味しているが、それはプレイヤにとっては、正に、点、でしかなく、線としての体験ではないのだ。

 

残念ながら、このゲームは、でしかない。

 

だが、物語とは、のはずだ。

ゲームを問わず、物語を体験するとは、に沿うことであり、ただ、点を与えられることではないはずだ。

 

このゲームはスカスカを地で行っている。

本来、ゲーム上の物語とは、クエスト中のイレギュラーやNPCとのやり取りで発展していくものなのだが、このゲームはただ荷物を運んで、それで終わりだ。

 

例えばですよ、小さな女の子がサムにおばあちゃんのために打撲や打身に効く軟膏の為の野草を摘んできて、との依頼があったとして、それが5回程依頼としてきて、最後に、軟膏とは全く関係のないヒツジグサの花を、(時雨農場の裏の高い頂にのみ自生、という設定にして)摘んできてほしい、との依頼がとんできたとします。

 

それは躰を痛め寝たきりになっていた小さなウサギ(ブリッジズにはそのような法令はないと思うが、ヴォイドアウトしないと考えられている小動物でさえその可能性を忌避し、プレッパーズは生き物を飼育してはいけない、という利用規約を設けていた為、女の子はおばあちゃんの為という嘘をつき、本当は脳味噌が麻痺しているウサギなのに軟膏の薬をサムに頼んでいたのだ。なぜなら、病院で正しい診察を受けようものなら、ウサギを飼育していたことがバレ、即刻 ウサギは解体され殺されてしまうと女の子は考えていたから) へのせめてもの、たむけ としてのお花だったのです。

 

サムは悲しそうにしている、子供にそっと

摘んできたお花を手渡します

 

そして、子供は

 

ねえ、みいちゃん(ウサギの名前)もお化け(ネクローシス)になるのかな。

もし、なるんだったら私この子をずっとてばなさない。

帰ってくるまでずっとそばにいる!

 

とサムに泣きながら伝えます

 

サムはそれをみて その子供を(接触恐怖症でありながら、また、接触恐怖症であるがゆえに手先が震えながら) 親のないプレッパーズのウサギだけが唯一の友達でもあり肉親でもあった子供を抱きしめてあげるのです。

 

 

 

これ、ですよ。

 

わかります?

 

こういうのが、物語なんですよ。

 

接触恐怖症のサムという設定を本作は上手く機能させていないし、なぜ、サムが接触恐怖症になってしまったのか、そして、サムの接触恐怖症はなぜ過去に一度、治癒していたのか。そしてなぜ、再発したのか。

 

これらは、ドキュメントを読めば分かります。

ただ、それはどうなのでしょう。

このドキュメント、かなりやり込まなければ手に入りません。

プレイヤが最も時間と思いをかける対象であるはずの、サムポーターブリッジズの思想性や人格などのバックグラウンドがテキストに丸投げされ、しかもそのドキュメントは万人がアクセスできるほど入手が容易ではない。

 

しかも、読んだところで、物語に対する理解度が深まるかというと、深まらない。

なぜなら、まず、ビーチとかカーとかハーかネクローシスや帰還者などイレギュラーしかないからだ。イレギュラーしかないところに、なぜ、サムが接触恐怖症になってしまったのか、という部分が重複しているため、読んだ人はまったく共感できないでしょうね。

 

 

このようにして、このゲームにはまるで褒められたところがない。

 

なにが、繋ぐ、だ、なにが繋がり

 

作中、連呼される、繋がり、北米大陸を繋いでくれ、絆 ストランド

 

私にはこれらの言葉が空虚に聴こえる

薄寒さすらおぼえる

なぜ、カイラル通信を繋ぐ程度で、人と人が繋がったことになるのか?

 

なぜそれで絆なんてものが発生するのか?

 

ネットで繋がっているこの世界は、愛でしかなかったか?

 

むしろ、逆なのでは?

 

誹謗中傷、ネットいじめ、匿名性を生かした悪質な書き込み

 

前述したようにプレッパーズのそれぞれとの間にサムが濃ゆい関係性を構築していったのであれば、それは人と人ではないにしろ、人とサムは繋がったことにはなったかもしれない。

 

だが、そのような関係性がまったく構築されることなく、(私は本作のプレッパーズすべてに対して親密度を星5、つまり最高ランクまで上げメールもすべて既読済みだ) 繋がり、だの、絆だの、口に出すと空転しかしない青い言葉がポンポンでてくるのには違和感しか覚えなかった。

 

 

小島さんにとっての繋がりってなんなんでしょうね。

 

ただ機械的に荷物を顧客に渡すこと?

音楽界、映画界の著名人たちと談話したり会食することで発生した関係性?

またその写真や動画をSNSにあげ関係性をおおやけに固着させること?

 

それらを経るだけで、人と人が繋がったことになるのか?

 

私は、人間とは孤独な生き物だと思うし

 

この世には馴れ合いしかないと思っている

 

どれだけ仲良さそうにしている夫婦だって

 

恋人だって

 

それは馴れ合いだ

 

それは妥協だ

 

結果、一人では作れないものがある

一人では癒せない寂しさがある

一人で歩くと寂しい夕日がある

 

ただそれだけだよ

 

人が誰かにすがる理由なんて

 

 

さて、長くなりましたが、

 

私はくだらないものにはここまで、長々と発言しません。

つまり、このデスストランディング には良い部分があった、ということです。

 

それはやはり設定です。

世界観、世界観とよく小島さんのゲームは言われますが、世界観、なんてものは、ないと思っています。少なからずこのデスストランディング というゲームについては。

 

あるのは設定です。

 

これは、クリエイターなら、涎を垂らすほどにかなり魅力的な設定です。

 

発想自体は特に独創的ということではありませんが、やはりここまで大々的に幽霊に対消滅を交えたり時間剥奪雨(もののけ姫で近いことを既にやっているが)やDOOMSと呼ばれる特殊能力保持者、しかもこのDOOMS、カイラル関連に耐性を持つばかりか、フラジャイルの発言によると、LV2や7と言ったように、段階があるらしく、段階によってもその能力の効果や性質が変わるのではないかと、プレイヤの想像を刺激する要素がふんだんに盛り込まれたゲームは希少だと思います。

 

 

総評としては、伊藤計畫なら、この設定で、どんな物語を描いただろう、と思える作品ではありましたし、二次創作、という視点でこの作品をみると、まさに宝庫と呼べる作品でもあったと思います。

 

ただ、条件があるとすると、サム、ポーターブリッジズや、アメリなどからは完全に離れた作品であるべきです。

 

この運ぶ、という概念からは離れるべきです。

 

それさえ飲み込めれば、それぞれのクリエイターの特質を生かした面白い作品が多々生まれるのではないでしょうか。

 

ただ、恐らく二次創作は流行らない。

 

結局はポケモンなどのようにキャッチーなものが、受けるのであって、今時、二次創作に人生を捧げ、このデスストランディング の世界設定を生かして物を作る人は、それこそ伊藤計畫ばかりの小島原理主義を必要とするだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宝石の国10

なんなんでしょうね。

この、感じは

 

ひとつだけ言えるのは、読者の読みたいことと、作者のえがきたいことに、ズレが生じている、ということでしょうか。

 

私が読者代表だとは言いませんが、というか、誰がどう読んでも、あのエクメアとカンゴームの流れは痛いでしょうよ。

私は耐えましたが、ああいうのが苦手な人は苦手でしょうね。

 

あの一連の流れで、この宝石の国で、いままで積み上げてきた崇高な概念性は急に三文な代物になってしまったと思います。

 

本作は、宝石という永遠に続く生を苦しみとも感じない、人間からの逸脱者と、肉を失い骨を失い、魂だけをその依り代としながら、いまだになることはできず、永遠に続く生に嫌気をさしている月人との対照性を描写し、月人、つまり、我々読者と同様の悩みを持ったサイドを、我々読者の苦悩と重ねあわせながら見ることで、それにどのような形で救済がもたらされるのかという帰趨に物語上の概念を超越した答えを期待できるところにその肝があったように思うが、月人の苦しみの象徴であるエクメアがあのような、愛、などという非永遠的なものに現を抜かすようでは、彼らの苦悩とは一体なんだったのか? その愛する、という非永遠的ものが、永遠に続くからこそ、彼らはになりたいんじゃないのか? 

 

 

と、読者はさぞや思ったことでしょう

 

 

 

市川春子、は終わっちまったのか

 

俺たちが見たい市川春子

あの10巻で出てきた研究者に集約されていると思う

 

彼の容姿や発言や、顔の陰影

 

こう知性を感じさせながら、核心は晒さない

 

でも、ぞくりとする発言をする

 

まあ、彼はかなりクリアの方ですけどね

 

でもその香りというか残滓は感じれた

 

彼女の漫画の価値は、動き、にはない

 

室内での、談話、や、静謐な画づくり、にこそある

 

アドミラビリスの犯罪者云々の流れで出てきたアドミラビリス数人の絵は見事でした

 

あのシーンは彼女の絵の良さが特にでている部分でした

 

それから、終劇間近のフォスの金剛先生への祈り、あれはフォスの200年以上も放置され疲弊しつくした苦しみの姿が絵として具現化したものだと言ってよいほど感情が伝わる素晴らしい出来でした

 

このように、やはり市川春子はすばらしいです

 

ですが、ブレをかんじる

 

そのブレはこの宝石の国1巻から本巻に至るまでずっと続いている

 

回答させて頂くと、

 

彼女から、場面切り替えを剥奪するべきだと

 

例えば、月人アレルギーのアレキは余り出演こそしませんが、カレーを食べた時の文章など、市川春子のハイセンスの詰まった発言をするため、彼女?個人をもっと知りたいなと私は思いました。

ですが、この宝石の国はすぐシーンが飛んでしまいます。

もし、アレキに徹底してカメラを設置して、どんな時に照れるのか、頰を紅く染めるのか、とか誰との会話でどんな言葉を選ぶのか、とか、そういう一人の人物に肉薄して、読んだ人の心にずっと残るようなシーンや文章を書くのが市川春子は出来る人です。現実の彼女の作品は、あまりにシーンを飛ばしすぎ、すべてが駆け足で過ぎ去ってしまっていて、物事に連関性がない。

 

 

もし、次作があるなら、一人の人物に肉薄して、徹底的に恥じらいやらなんやらを描いていただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は

ざっくりとゲームについて

 

語ろうかなと思います。

久しぶりの発言になりますね。

 

映画は最近は観ていないです。

どちらかというと、観たくはないから観ていないということになります。

 

映画を観ることは獄中で鎖に繋げられることに似ている。なぜ、みんな映画を観たがるのだろう? 

そんなに自由を奪われたいのだろうか?

 

 

今回はゲームについて少し思ったことを書こうかなと。

 

簡潔に言うと、ゲームとは、特にオンライン要素のあるゲームにおいては、発売最初期だけが、本当の意味で価値のあるゲームなんだな、ということです。

 

グラフにすると、(解り易いとは思いますが、そこは割愛)、発売最初期の大半のプレイヤーの攻略過程や装備、あるいは攻略方法、そういったものは、横軸が五段階で1〜3までに留まっていると思います。

 

それが、発売から仮に三ヶ月経過した場合、どうなりますかというと、1と5なんですね。新規のプレイヤーがちらほら、後は、クリア済みのプレイヤーだけという、なんとも極端なプレイヤー推移状態になっているのです。

 

この5のプレイヤーは装備を最強装備に整え、敵対する対象の攻略方法を熟知しており、共にプレイするとテンプレ感が否めません。当然、勝てて当たり前ですから、強敵を打破したときの喜びをそこに見出すことはありません。飽くまでも惰性に過ぎないのです。

 

畢竟するに、ゲームとはナマモノなんだなと。

鮮度がすべて

 

 

例えば、いま発売が予定されている、世界が待望している?かどうかは怪しいですが、というのも、メタルギアは一部の熱狂的なファナティックが支持しているだけで、言うほど売れてはおらず、今回のデスストランディング も一部の映画ファンには垂涎もののキャストを揃えてはいますが、ゲームの購入層の多くは映画ファンではないので、ヴィジュアルに惹かれて購入するという甘え考えは通用しないでしょう。

 

第1、私の個人的な意見としては、既存の現実に実在する人物の顔面をモーションキャプチャーで取り込んで、それをゲームにするという過程が、やはり好きではない。

ニーアオートマタのように、吉田明彦さんが書き下ろしたキャラクターを実際にゲーム画面上で動かす、という過程の方が、私はワクワクします。

というのも、どうしても、既存の現実に実在する人物の顔面を使用してしまうと、文脈が発生してしまいます。ノーマンリーダスなら、ウォーキングデッド、マッツミケルセンなら、ハンニバル、ブリーダー、レフン氏なら、ネオンデーモン、ギレルモなら、クリムゾンピークなどというように、

 

そうなると、結局はそこで発生した、世界体系そのものに、完全唯一性が失われ、既存世界の流用物として我々の目に認知されてしまうからです。

 

私は、中立性、が欲しい

 

ゲームは映画ではない

 

話がそれましたね

 

戻すと、デスストランディング は その特色が強く現れる作品になるのではないかなと思います。

 

プレイヤー次第ではありますが、複数人のプレイヤーが協力しハイウェイを建造の後、そこを、バイクで走ることも可能だそうですが、その地帯のカイラル通信をサムが繋いでいなければ、当然オンライン状態にはならないので、その地帯をクリアするまではそのハイウェイも視認することはできないようです。

 

つまり、我々はクリアした時に、世界が一変する、感覚にとらわれるわけです。

 

ですが、当然、発売最初期はみんなヒヨッコですから、恐らく建造するのに様々かつ大量の物資を必要とするハイウェイは建造されていないので、みんなで協力して建造する必要があります。(まあ、みんながどうか不明ですが)  それが、発売から半年も経てば、新規は何の苦労もせずにそのハイウェイを利用することができるようになっているのではないでしょうか?

 

そうなると、そのハイウェイを建造し、緑広がる大地に灰色のコンクリ物質が悠々とその姿態をひろげている様に感動することはもうできないのです。それを作るという過程がありませんから。

 

プレイヤー成熟度が最終段階に達するとデスストランディング はカイラル通信にさえ、繋げれば、他プレイヤーが設立した様々な利便施設を活用するだけの何の艱難辛苦もないお気軽配達ゲームに成り下がるのではないでしょうか?

 

 

小島さんには、むしろ、こう訊きたい。

このゲームが売れると思っているのか?  と

 

売れるためにこのゲームを作っているのか?と

 

もちろん、会社が潰れない程度には売れるでしょう。

最低でも、200万本は売れると思います

 

ですが、配達する、というこのコンセプトが、ゲーマーにウケると私は思いません。

 

ゲームは映画ではなく、ゲームですから。

 

結局は、プレイヤーがコントローラーを握っていて楽しいか?  そこだと思います。

 

ただ、だだっ広いだけで何の文化性もない荒涼とした変わり映えのしない大地の中をゴツゴツの男一人で配達する、および、配達する際にサムが転ばないように重心操作する、それを行うことに、プレイヤーが操作する喜びを感じれるのか?

 

 

ところで、SNSで見かけたデスストランディング についての発言にこんなものがありました

 

質問者、バトルは出来るんでしょうか?

リプライ、ルートを選ぶことができると小島監督が言っていたでしょう。敵が多いところにサムを連れていけばいいだけです。

質問者、ならよかったです。バトルがしたいので

 

こんな流れを見かけました。

 

もちろん、プレイヤー層がすべてこの質問者のような人間ばかりだとは思いませんが、小島さんの今回のデスストランディング のテーマは、繋げる、であって、棒で人を殴ることではない、筈です。だから、作中のいいねシステムも、YouTubeのようにバッドがないんですよ。

 

つまりですね、このデスストランディング1984年とかウィリアムギブスン、アルフレッドベスター、ティプトリーJr.、ジーンウルフとか一部のSF読みや、先程の映画オタクなどにはウケは相当良いと思うんですけど、所謂、ゲームしかしないコールオブデューティーやR6sやディヴィジョンなどの人殺しのゲームを率先的に好んでする層には、小島さんの本作で伝えたいことは伝わらないと思います。

だって、上記の質問者も、書いているじゃないですか。戦闘がしたいと。

 

結局は、争いたいんですよ。人間は

 

 

まあ、当の小島さんも、ディヴィジョン2が出た時に、UBIの開発からそれを頂いたとツイートされていましたけどね。

メタルギアに似ていましたしね。

私はプレイしていないし、今後もプレイする気はないですが。

人を撃ち殺すゲームは思想的な深みが足りない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アメリ

まだね、冒頭の10分ぐらいしか閲覧していないんですが、なんだこの、傑作は。 と、おもいましたよ。

 

このジャン=ピエール・ジュネ監督は天才かと、そう思いましたよ。

 

まず、語り口が抜群に面白い、人物のみでお話が進行するのではなく、ナレーターとおぼしき語り手が関与していく構成なのですが、その文章がおもしろい。毎分1万4563回羽ばたくブルテーニュ通りの銀蠅が路傍に着地した時、時同じくしてツェペシ・ル・ブルレ通りの閑静な住宅街にある二階のブロマンス調の壁紙で満たされた一辺10メーターの一室ではプロスト・マイストシシ氏の精巣からやっと解き放たれた曰くつきの精子がフリーナル夫人の青ざめた卵子にいま結合を果さんとしていた、みたいな、本文は私の造語で上記のものとは違うんですが、まあ、こんな感じで関係ない表現が連続した後に、最後に精子云々と来て、アメリ、という女の子が産まれる過程が表現されていました。

 

このような表現によって、何が現出されるかというと、蝿が轢かれるやグラスがテーブルの上で風に揺れるなど関係ない物事と出産という人間にとってあるいは物語にとって特異であると見做される事物を同列に扱うことで、物事とは人間の意志や感情によって決定的な変化を遂げるわけではなく、ただ、連綿と時が流れていくだけであり、そこには悲しみも喜びもない。

 

そういった超越的視点の提起、がこの作品の根底にあることを知らせている

 

 

 

金魚にクジラと名付けられているのも、おもしろいし、自殺という概念を魚に与えるのもおもしろいし、アメリがそれを見てキチガイみたいに叫ぶのもおもしろいし、金魚が自殺したことに、まるで生活すべてが耐えられないかのような極度の疲労と精神的ストレスによる神経症に罹病したかのような反応をするアメリのお母さんもおもしろい。これが凡百の映画なら、まず、アメリキチガイみたいに叫んだことに対する精神病院への通院の考慮を両親が議論するなどして、現代の科学的知見でその異常性、いや、それを、異常性と判断してしまうことだろう。

 

だが、そういった物語の進行はつまらない。

そんなものはお堅いドキュメンタリー映画だけにして、映画という作品は、異常性に一々目くじらを立てるべきではない。それはつまらない。

 

いや、だって、こういうことですよ。

 

ハ◯ー・◯ッ◯ーがシネビルノイズ とかいう呪文を発した瞬間相手の胃袋の中にドワーフの膿をすいだしたヒイロミナメクジの唾液が発現し、対象者の姿が徐々に別の生物に変化していったりしたとしたとき、それに一々 それは 現実的ではない。手から雷などでるわけもないし、箒で空を飛べるわけなどない。科学的に不合理だ。と言いだしたら、つまらないですよ。

 

ぼくはだから宣言しよう

 

あらゆる映画作品は 非現実的であるべきだ

 

 

でも、それはリアリティがなくていい、と言っているわけじゃない。

 

ぼくたちに必要なのはつまり科学的合理性ではなく、実感なんだ。

 

実感さえあればいい

 

実感こそ、愛なんじゃないか?

 

その背景なんて本当はどうでもいいんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

Drive

最近観た映画

フライトナイト

スノーホワイト

イーオン・フラックス

・トランスポーター

トランスポーター2

・トランスポーター3

・モンスターホテル

・モンスターホテル2

マイノリティ・リポート

・不吉な招待状

・Drive

・ポーラー 狙われた暗殺者

 

我ながら驚異的なスピードで映画を観ているな、と、思いますが、それはともかく、サクッと批評

 

 

フライトナイト

ウィリアム・ラグステール演じる高校生チャーリーが隣家に越してきた妖しい隣人をヴァンパイアだと揶揄し周囲の人間を巻き込み話が進んでいく単純明快なストーリー。

主役のなんとも言えないティーン感が観ている人間の乾いた心に在りし日の愚かしくもそれを笑ってすますことのできた身軽な日々に生きていた頃の自分を想起させ、郷愁に浸らせる。

映画の脚本や完成度としても、傑作と評することはできないが、特筆するべき点は、なんと言っても、1985年に公開された比較的古い映画であるにも関わらず、皮膚が溶けるシーンなどの特殊メイク特殊演出が際立ってよく出来ており、そのリアルな質感に驚かされる。それを観るだけでも一見の価値あり

 

スノーホワイト

映画としては、駄作も駄作、まるで褒められたところがない。

他者の感想に度々主役のクリステン・スチュワートがブスだとか、シャーリーズ・セロンと比較して彼女の容姿や前歯をこけおろしている人間を多数見かけたが、私はクリステン・スチュワートを綺麗だと思った。普通に美人だと思ったし、あの抜けるような肌の白さが、正に白雪姫だと思った。

通常白雪姫と言ったら顔が丸型だが彼女の顔はかなりキリッとしている。でもそれはこのスノーホワイトという映画の守られるだけのか弱いお姫様ではなく、これからのお姫様は戦うこともできる、という元来の古典的な女性像に唾棄し受動的ではない新たな新時代のお姫様を提示しようとするテーマ性に合致していた為適役だと思う。

彼女のことをブスだと言っている人間は見る目がないね。一度眼球を取り替えてくるべきだと思う。そう言う人間の顔はまるで見られたものではないのではないか?

妙にクリステンの事を罵倒している人間には、シャーリーズ・セロンのシンパが多かったけど、私もシャーリーズ・セロンのことを美人だとは思うが、彼女の美しさは、人形に近い。そういう顔にはあまり興味がもてない。それに比べてクリステン・スチュワートの顔は血の通った人間という感じで、なにより刺激的だ。

 

トランスポーター

この度、トランスポーターを1.2.3と立て続けに視聴したが、1と2は悪くなかった。が、3は駄作であった。3はとにかくキャストがひどい。車から一定の距離離れると腕に嵌められたリングが爆発するという物語の設定上、同乗したヒロインがこのトランスポーターシリーズで最も長いこと、主役のジェイソン・ステイサムの隣で画面に映し出させれるのだが、同時にこのヒロインがトランスポーターシリーズのヒロインの中でもっとも華がない。女性的魅力が皆無だと言っていい。作中「私って魅力ない?」とか聞いてくるのだが、ステイサムがそれに否定した時、多くの視聴者は心の中でステイサムの発言に反駁したことだろう。

このシリーズの真のヒロインはフランス人の警部だということを多くのファンが認めることだろう

 

モンスターホテル

普段吹き替えは観ない方だが、アニメは海外作品でも基本的に吹き替え派だ。

川島氏の演じるメイヴィスがカワイイ。藤森氏の演技も高評価されるべき代物だ。

作品としては可もなく不可もなく。よくできた外人の作ったアニメ、って感じ。

この作品は人の人生を変えるようなものではないかもしれないが、こういう軽い映画は、人生に深く悩んでいるわけでも、部屋から飛び出て楽しいことをできるほど幸せではない時に、少し退屈そうな顔で見たりして時間をやり過ごすとき、必要な軽さなのかもしれない。

 

イーオン・フラックス

余り評価自体は高くないそうだが、僕は結構好きな映画でした。世界観が嫌いじゃない。白い壁に閉ざされ徹底的に管理されたディストピア社会の中でそれを打ち破ろうと暗躍する反乱組織に雇われた女諜報員が華麗に罠で張り巡らされた庭内を駆け抜けターゲットを抹殺する。

いいじゃない。カッコイイ!!

まあ、評価が低いポイントは理解できなくもない。

恐らく、内容が薄いとか、後半にただ不必要なほど人がバタバタと死んでいく。その死は主役のシャリーズ・セロンの優秀な身体能力を誇示するものでしかなく、それも前半に充分なほど提示していた為、ただ絵的に派手だからそうした感が否めない。とか、そんな感じだろう。

でもこの映画の魅力は静止画の美しさを堪能することにあると思いますよ。劇中、食べ物を映すシーンがあるんですが、絵画めいて非常に綺麗でしたね。

 

不吉な招待状

同上の映画と同様の映画監督、カリン・クサマ女史の映画。

後半のシーンまでは非常に退屈でした。

これは一般論と呼べるほどのものでしょう。

多くの人間があれらの映像の中に面白さを見出すことはとてつもなく困難なことだろう。

ラストにしても、散々、タイトルにもあるように不吉なとか書いていますからね。だから意外性があるわけじゃない。

総じて駄作だと呼べる代物だ。

 

マイノリティ リポート

トムクルーズが私は好きではない。

というのも、トムクルーズが演じた人物はどれもトムクルーズだからだ。トムクルーズトムクルーズにしかなれない。

未来予知者がいきなり突拍子もなく叫び出すシーンは観ていて不快で、滑稽にすら思える。

また眼球を弄ぶシーンや腐った食べ物を吐け出すシーンなど、観ていて生理的不快感に襲われる汚穢なシーンも多い。

筋書きによる犯人にも意外性はない。

主人公の息子が誘拐され殺された事実を知っている人間は作中では、あの人しかいない。

そしてトムは自分が嵌められたことを知る。

わかりますね?

必然的に嵌めた人間が誰か

表題作のマイノリティ リポート という語にも深い意味はない。

この映画を撮ったスピルバーグという男は最早化石だ。化石は安らかに土の下で眠っているがいい。いつか考古学者に掘り起こされ、その細胞組織から古代生物スピルバーグが復古しスピルバーグパークが開園しないことを祈る

 

ポーラー 狙われた暗殺者

グロい

 

Drive

このニコラス・W・レフンという男の女の好みが見えてきた感じがある。ブリーダーのあの女の子と今作の人妻とネオンデーモンのエルファニング、驚くほど顔が似ていると思いませんか? 童顔で子供のような笑顔で純粋さを演出し、まるで俺が居なければ駄目なんじゃないか? と思わせるためだけに存在するかのようか弱々しさ、総じて、危険な女達だ。

 

でも、女の趣味が良いとしか言いようがない。

ある種の人間にはあの手の女がたまらなく魅力的におもえてくるはずだ。

 

映画としては、良作とはいえない。

俺はブリーダーが好きだ。

脚本がよくない。

ライアン・ゴズリングの演技が受動的過ぎて人妻との間に不仲によるギスギスした空気のようなものを感じてしまい、いまいち情感が伝わってこない。

ライアン・ゴズリングと人妻が親交を深めるシーンまでは良かったが、獄中のDQN男が復帰してきてからは、この映画は方向性を見失ってしまったように思う。バイオレンスが描きたかったのか? それとも 人妻との不倫を描く中で法に囚われない純愛を描きたかったのか?  どちらも中途半端で、ライアンがマスクを被って殺人に手を染めるシーンなんて、B級ホラー映画にしか見えない。

俺たちが観たかったのは、もっと心理的な映画だったと思うんだ。

例えばね、こういうのはどうでしょう?

DQN男がシャバに帰ってくるまえに、ライアンは人妻にあるプレゼントを贈った。

そのDQNは、それを見て、「なんだこれ? なに俺の居ない間にこんな妙なものを飾ってんだ。あとで捨てておけ。………ああ? なんだ その目は。 わかったな? おい  わかってんのか!」と怒鳴られた後でも彼女はそれを捨てなかった。そして揉み合いになり、必死に守ろうとしたが、贈られたそれは引きちぎられ欠けてしまった。

後日、人妻とライアンが会った際、その贈り物を見てハッとした表情のライアンに向かって、人妻が「ごめんね。欠けちゃった」と下を向いて言う。

 

これ、ですよね? 俺たちがみたかったのは。

こういう心理的な映画ですよね?

 

 

だいたいな、俺は許せんよ。ああいう人妻は

ライアンの手なんぞ握ったりしてきて

旦那が獄中にいるというのに

しっかり女を出していると思うんですよ

それでいて旦那がシャバに帰ってきても、ライアンを自宅に呼んで、これからも交友を深めていきましょう、という態度

 

生殺しか?!

 

あの手の女は愛されたい願望があるんでしょうかね?

 

ハッキリとした態度でライアンに気持ちを表明するべきだったと思うんですが

 

あれがね、単なる、友人、仲のいい隣人、なら構いませんよ。でもねえ、あれはそういうのじゃないでしょ。明らかに恋人的な感情だったでしょう

 

え?  女からすると、略奪してほしかった?

強引に

 

いいご身分だな

 

 

この映画はラストシーンも余り好きじゃないんですよ。

 

ライアンに幸せを与えてあげてほしかった

 

いいじゃない

 

彼は殺人鬼じゃない

 

彼女と息子を守るために全てやったのに、帰るところもないなんて、かわいそうだよ

 

彼女は彼の部屋をラストシーンでノックした

不在

 

殺人を犯した後に幸せを描くと三文映画になるから?

 

それでもね、観た人間にその後を任せるのは、放棄ですよ。やはりね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ICO

歴史に名を残すクソゲーの中のクソゲー

 

それが、ICO

 

五段階評価中

 

アクション性:0

ストーリー:0

グラフィック:0

操作性:0

ユーザビリティ:0

キャラクターデザイン:0(ヨルダのみ☆5)

音楽:0、ではあるが、終幕付近に流された音楽のみ特筆に値する

 

 

私がこれまでプレイした数多のゲームの中でぶっちぎりでダントツでの一位、他の追随を決して許すことのないキングオブクソゲー、それがICOでした

 

 

このゲームには最早ぼくは憎悪に近いものまで抱いている。

プレイを重ねるごとにその憎しみは積み重なり、しまいには祈るように早くこのゲームから解放されることを思念していた

 

だからこれから気の済むまでこの怨みの捌け口としてこのゲームの不満点をあげたいと思う

 

 

まず、致命的にこのゲームの評価を下げている点としてあげられるのが、カメラ視点だ

 

このゲームのカメラ視点はゴムを想起してくれれば、理解しやすいかと思われる。

我々は自由に観たい所を観ることはできず、あくまでも主人公が現在立っている場所によって予め決められたカメラ配置を提供したいようで、それを破ろうとしようものなら、まるでゴムの弾性変形のように強制的に決められたカメラ配置に差し戻されるのだ。

 

このゲームは基本的に室内での展開が多いのだが、そんな中、緑に溢れ風車が回り、高い地点から遠くの山々が見えるような楽園めいた場所を突如見つけようものなら、きっとプレイヤーは世界を見渡したいと思うはずだ。

だが、プレイした人なら、お解りだろう。

それすらも、このゲームは私達にゆるしてくれなかったのだ

 

また、この致命的なカメラ配置の劣悪さが、ただでさえ、ディレイのある直感的ではない操作感と相まって、このゲームで人物を望む処に動かすという基本的な操作をも難解にしてしまっている。

 

既に言った通り、このゲームは自分の好きな場所にカメラを置けないうえ、移動してゆく毎にカメラの位置が変わるため、プレイヤーが例えば、レフトアナログスティックを真正面に倒し、キャラクターを真正面に移動させていたとしたら、カメラ角度が変更され、今までは真正面に倒していたら真正面に移動できていたことが、右斜め前に移動するよう操作していたことになったりする。

 

これが、最悪の影響を齎すゲームデザインが、落下死だ。

そしてこのゲームは、落下死ゲーだ

 

頻繁に高所にあるパイプや通路を歩かされる

 

そして、この最悪な組み合わせを更に最悪にさせるのが、オートセーブポイントの欠如だ

 

一部を除いて、殆どの場所で、落下死しようものなら、最後のセーブポイントまでかなりの距離もどされる。

 

これが、トライ&エラーの仕込みを著しく低下させ、プレイヤーへ極度の疲労とストレスを与えている

 

この開発は何も分かっていないんだろうな、と思いましたよ。

無能だと。

心底軽蔑しましたよ。

 

私が開発者なら、まず、何に対して最も重量を置くべきかを考えます。

この作品は、カメラ視点を限定することで、遠景と小さくなった人物を演出し、どこか、そう、このゲームの象徴でもあるパッケージに使用されたあのジョルジュ・デ・キリコの絵のオマージュと思しきもののように、絵画めいて、人物の心理描写を突き放しプレイヤーとキャラクターとの心理の間に乖離を生むのが目的としているように見えた訳から、プレイング重視よりも、印象重視派だったと解釈している。

そういう観点から見て、では、先程のような、無意味な巻き戻しは、どうなのか?

 

ただ悪戯にプレイヤーのICOという世界に対する没入感を低下させるばかりか、出来の悪いノロノロとした歩みの遅いAIが常に随伴し、その無能なAIから一定の距離離れ続けると常に敵が出現するため、ただ失敗した地点までICOが急速に戻ることは認められず、ヨルダという無能AIを待たなければならないという罰すら開発者から与えられる。

 

これは、苦痛でしたね。

本来、ヒロインを大切に思い、ヒロインが付いてきてくれることを喜ぶべきなのに、そのヒロインを邪険にしなければならないような仕様にしている開発者は正気ではないな

 

だから、この開発者達は何も考えていないんだろうなと思いましたよ。心底

 

そして次に、敵

 

攻撃は基本的に□ボタンを押すだけです

 

ただそれだけです

 

なのに、そのつまらん戦闘が頻繁におき、4体程度ならいざしらず、毎度夥しい数の敵が現れ攻略を停止させます

 

これも、先程と同様ですね

プレイヤーのことを何も考えていない

だれが、クソつまらん、ただ□ボタン押していればいいだけの戦闘を頻繁にすることを所望するだろうか?

ただ、作品のテンポを低下させるだけの存在自体に疑問を提示しなければならない無駄なフェーズ

私が開発者なら、カットするか、アクションを複雑にするか(だが、この選択肢はない。それはこのICOという作品のコンセプトに不適切だ。というより、アクションを複雑にするなら物語も長くしなければならないし、もっと人物描写を掘り下げなければならなくなるだろう。もとい、人物の変更が必要。主人公の少年が致命的に魅力に乏しい。美男ではない。ブサイクな少年がニーアオートマタのアクションのように敵を華麗に切り刻み超人的なスピードで敵の攻撃を回避する絵面を誰が望む? 当然、アクション性を高めれば、そのアクションを使用しなければ勝てないほどの優秀な敵AIも作らなければならなくなり、当初のこのICOというゲームの少女と少年が謎めいた城から脱出するというシンプルだが魅力的なコンセプトから著しく離脱することは必至となり、やはり、アクション性の複雑さは推奨されない、という結論がくだされるだろう) 

 

 

 

統括

 

作品のコンセプト自体は高く評価している

ヨルダのキャラデザも秀逸

だが、主人公が致命的にウザいのだ

例えばセーブポイントであるソファに座る際に二人座らなければセーブできないのだが、その少年はポンポンとソファを叩く。速く来いよ、というわけである。何様だと。なぜ、そこまで高圧的なのか。貴様はヨルダの彼氏なのか? またヨルダもヨルダだ。この女の子には主体性というものがほとんど感じられない。脱出したいのか、したくないのか。それすらもわからない。なぜ、少年についてこないのか。橋で、別離するシーンや魔物に引きずり込まれそうになった時、彼女は明らかに少年に助けを求めているのだが、それはつまり、彼女としてもこの城から出たい、ということなのか。であればなぜ棒立ちしかしないのか、、、、というように、このヨルダという人間の行動理念には些かならぬ疑念を持たざるを得ない。

 

つまり、キャラクター性が弱い、ということだ。

 

日本一ソフトウェアやヨコオタロウ氏辺りが、じゃあ、ICOと同様のコンセプトで、あるいはもっともっと壮大に人物を増やして、一国と呼べるほどの広大な面積の中でシナリオを下ろしてくれたら、面白いものができたでしょうね

 

ただ、脱出するという行為自体が、低級なので、いやいやいや、物語とは、そもそも脱出するにはないですよね?

 

脱出しようとしたけど、ヒロインが何らかの呪いにかかっていて、血に塗れた修羅の道を歩まざるをえなくなり、当該の空間から抜け出せなかった。主人公の少年だけがその空間から抜け出せはしたが、少年は大きな代償を払っていた。少女という大切な友人と離れ離れになってしまった。少年は決意し。いつか必ず、少女をあの巨大にして背徳と淫靡栄たる地下遺跡オフィーツパから救出してみせる

 

みたいな、それが、物語でしょ。

ICOはあくまでも、脱出が目的なので、思想性の深さは生じない

 

寝て食べて食って寝る

 

みたいなものですよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魔女と百騎兵

いま、第3章の8幕だったっけかな。

 

まで、プレイしてみたが、特に不満はない。

 

まあ、確かにレベル上がりづらい、とか、塔の攻略がストーリーと連動しているため塔だけを武器と経験値目当てにづかづかと進めることはできないとか、ローディングが長い上に、マップ移動を頻繁に要求するゲームデザイン、百騎兵という操作キャラクターが完全受動性とも言えるため、メタリカとの個人的な複雑した人間関係が構築されず、キャラゲーによくある恋愛感情の蜂起によるツンキャラのデレなどが芽生えないためキャラクターゲーなのにキャラクター性が欠けているや、そもそも百騎兵というキャラクターが根本的に魅力に欠け操作する喜びにも乏しい。

またアクション部分も深いとは言えず、装備が整えば適当に回避とガードと攻撃ボタンを押していればクリアでき、中毒性に乏しい。にも関わらずディスガイアばりにやり込み要素が配置され、開発者はこの程度のアクション性で何百時間遊ばす気なのかと。正気を疑いもしますが。

 

それでも、不満はない

 

です

 

もうね、惚れてるんだろうね

 

この音楽とハラタケさんの絵と、このキャラクター達の性格造形、およびそれに声をいれた声優の演技

 

それらの匂いを色濃く残すことのできる、この日本一ソフトウェア、というデペロッパーに

 

 

ストーリーは、あはあはなるほどと

 

メタリカが未来から過去に送られたと仮定したとしても、なぜ、メタリカは記憶を失っているのか?

 

そして、アレルッキーノやマーリィがメタリカをリカと執拗に呼ぶのも、記憶が失われていない証拠だと考えられるため、違う世界線から来た、とかそんなものではないはず。だが、面白いのが、先述した塔のお話も同時に進行させることができるのだが、そこでは明らかに違う世界線から来た、的な話の流れなのだ。

 

この謎に満ちたストーリー展開がたまりませんね